#100 金融的身体性への反動~人文奨学金第二期に向けて~
いま人文知はブームなのか
記念すべき#100を何で書こうかなとおもっていたのですが、ちょうどタイミングがよくANRIで人文奨学金の第二期の募集を開始したので、それについて書いてみました。
去年自分が力をいれていたのが雑誌制作とこの人文奨学金だったので一つ自分の人生において大学時代からこういった分野に興味はありましたが、一つ人生でフラグが回収できたような気がします。ANRIでいる限りは止められない限りこの奨学金はやろうとおもっているので、ぜひこれを読んでいる方で周りに対象者の方いたらおすすめしてあげてください。
ANRI人文奨学金第二期はじまりました。締め切りは 2026年6月7日
昨年に始めた人文の奨学金の第二期を開始させていただいた。前回と同じく50万円×最大10人と、今回はU25枠も10万円×最大5名で用意させていただいた。前回審査をするにあたってやはり研究している期間が長い人の研究に魅せられることが多かったため、今回はより若い人もとりあげたいとおもい実験的にU25枠も作らせていただいた。ただU25はもしかしたら採用しないかもしれない。これは蓋を開けてみないとわからない。
ぜひ周りの方や興味あるかたにオススメいただいたり、対象の方はぜひ申し込んでいただきたい!今回も面白い研究者の方々とお会いできるのを楽しみにしている。
-プレスリリース
https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000083.000040191.html
-募集要項など
https://humanities-staff-hash.github.io/anri-humanities-2nd/
問いの重要性=未完の問い
昨年の今頃に、なぜ人文奨学金を作ったのかということに対して書いた。正直いうとここまで言語化を最初してやったというよりは、ずっとこういう人文知っぽいのには興味関心もあったが、世界や時代を見ていると多分まだまだ人文知が重要っぽいのにアンダーバリューされているなーとおもったことがきっかけだ。それを言語化したのがこちらの文章である。
改めて今回第二期を始めるにあたって、タグラインを考えようとなりそれを考えるにあたってやはり自分の中で重要だなと改めて考えたのは”問い”である。
AI時代において答えを今の知識ベースからなにか出すことは勝てないというか人間がする仕事でもなくなってくると思う。そうしたときに問いを生む、問いを考えるということは人間がまだやるべき仕事のように自分は思う。
また理工系学問全般というと多分違うし怒られそうだが、基本的には正解というものを解いたり、新しい未開の知を判明しにいくことが理工系の学問の素晴らしさ何だと思う。一方で人間や社会などを相手にすることになると、ずっと本質や正解というものが一義的には決まりずらいのが人文社の分野なのかなと個人的には捉えている。
ただそのような態度がいまの社会においては非常に重要なのではないかと思う。テクノロジーの発展だけでは社会が良くなっているかというとそうではないし、それをどう使ってどういう社会や未来を築いていくことができるかが問いとして重要だと思っている。そしてその答えも5年前と今だと違うかもしれないし5年後、10年後にも変化しているような気がする。止められれないテクノロジーの進化・発展に伴い、常に問いをアップデートしながら社会に対峙する姿勢がこれからのビジネスパーソン含めて必要なスキルではないかとも思う。
そういったことを考えたときに、常に完成しない”未完の問い”というものがこの人文奨学金を通して期待していることではないのかと思って、このタグラインと下記ポエムを書かせていただいた。
ANRI人文奨学金 第2期に寄せて ── “未完の問い”
ANRI人文奨学金の第2期を始めるにあたって、改めて、なぜベンチャーキャピタルであるANRIが人文知に対する奨学金を行っているのかを書いておきたい。
ビジネスの基本は課題解決だと言われる。問いを「解くべき課題」に変換し、答えを出していく営みだ。理工系の学問に注目が集まるのも、この「問いと解決」のサイクルを回せるからだろう。ANRIが別途行っている基礎科学の奨学金「未解の知」も、まだ誰も踏み込んでいない領域に立ち向かう研究者を支援するものであり、それは非常に大事なことだ。
一方で、人文知の力はもっと手前にある。答えを出すことではなく、問い自体を生むことにあるのではないかと思っている。人間や社会と向き合うとき、たった一つの正解があるわけではない。時代によって解釈は変わり、永遠に「解けた」とは言えない問いがある。そういう問いを考え続けられること——それが人文知の、何ものにも代えがたい役割なのだと個人的には捉えている。
だから第2期から「未完の問い」というものをタグラインに掲げたい。人間や社会には、完結した答えなどない。常に未完であり、だからこそ問い続ける価値がある。その未完の問いに向き合い続ける研究者を支援することで、問いを絶やさない世界をつくっていきたい。
私たちANRIは「圧倒的未来」の実現を掲げている。けれど圧倒的未来とは何か、社内で話してもひとりひとり答えが違う。それでいいのだと今は思う。世界情勢が揺れ動く今だからこそ、「これだけが正しい」というものではなく、多様な問いを持つことこそが、圧倒的未来をつくることにつながる——1期を通じて、そう確信した。
今回も、気概ある研究者を支援できることを心から楽しみにしている。
人文知ブームなのか
去年からそんな活動をしているといろんなイベントなどに呼んでいただいた。本当にありがたい。ゲンロンのベンチャーキャピタルはなぜ人文系に投資するのか?とか、De-ciloのイベントにも呼んでいただいたり、1月には”いま人文知の現場はどこにあるのか”という大阪のイベントにもよんでいただいたり、ゲンロン総会にも登壇させていただいたりした。
正直自分は特に人文知系の研究者でもなければなんでもないので、ありがたいが身分不相応だなという感覚もありながら、いろいろ出させていただいた。多分ビジネスでさらに金融のどまんなかにいる人間がそういった人文という分野に興味をなぜもつのかが不思議だったのかもしれない。
個人的には社会は人間によってできていて、すべてつながっているのだからビジネスパーソンがそういったものに興味をもつのは当たり前なのではないかとも思っていたが、多分いろいろタイミングなどもあいまったのだろうと推測する。
多分ビジネス業界の人はしらないかもしれないが、令和人文主義という言葉も昨年自分も目にすることが人文っぽい業界の人のXなどを見ていると増えたように思える。哲学者の谷川さんがそういう現象があるのではないかということで名付けたものだが、それがいろいろ語られ始めたのが去年末ぐらいだった。
そういう意味において、社会においてまだまだ弱い火だがANRIで自分が人文奨学金を始めた年に少しそういった分野にも熱が入ってきているように感じる。
金融的身体感覚の限界と反動
ではなぜそういうことが起きているのだろうか。正直わからないが、個人的な仮説を話すと、金融的身体性/身体感覚にこの数十年かけていろんな人が染まってきたが、その未来に何があるのだろうかと不安になっているからではないだろうか。
金融的身体性っていうのは自分の造語である。金融化された主体性といってもいいのかもしれない。身体性 = そのからだが、どう知覚し、どう動き、どう関係するかという“あり方”としたときに、単に「金融っぽい考え方」ではなく、期待値、回収可能性、流動性、レバレッジ、リスク管理みたいな感覚が、思考のレベルを超えて、反応や習慣のレベルにまで沈み込んでいるように現代の人はなってきているのではないかという仮説がある。
例えばなにかを買うときに資産性があるのかどうかというものは当たり前に全てに意識されてしまうし、なにか意思決定をするときに金銭的/金融的な意思決定が正解、自分の資産を最大化することが正という前提を疑わない姿勢が染み付いてしまっている。
例えば2010年代的な語り口でいうとやはり成長であり、自分のキャリアをどう上げていくかみたいなものをメディア中心に語られていたように感じる。その前も勝間和代さん的な、自己成長・自己啓発的な文脈がずっと合った気がする。その当時おぼろげに覚えているのが、英語とITと会計をやれば年収があがる!みたいなナラティブがあったように思う。(今おもうと全てほぼAIで代替される可能性があるが)
一方でそのような先にあるのがアメリカ的な社会であるとしたならば、そのような社会に住みたいのかなりたいのか、本当にその金融的身体性が染み付いた先に幸せがあるのだろうかということがでてきたのが2020年代なのではないかと捉えている。これを勝手にNewspicks的実存の危機とよんでいる(Newspicksのみなさますみません)と、先に紹介した大阪のイベントで少し刺さった。
新自由主義的なものへの行き詰まり
そのような時代を漂う空気感はいろんな形で表出している気がしている。金融的価値観に基づいていくと、西洋の敗北でトッドが語る”宗教的空虚こそ新自由主義の究極の真理”という表現はあるが、ネオリベ的な感覚の先にあるものへの絶望感という意味においてアナロジーとして捉えることができる。同様に齋藤ジン『世界秩序が変わる時』にも下記のように、新自由主義的な世界観のパラダイムシフトが起こることを予言している。
宗教ゼロは道徳ゼロであり歴史ゼロだ。欲望しか信じられなくなった個人は小さくなり、互いに極端に不寛容になる(西洋の敗北)
2021年以降、私は世界のプロの投資家に対し、「新自由主義的な世界観に支えられてきた既存システムは信認(コンフィデンス)を失った。根幹世界観へのコンフィデンスが崩れた以上、パラダイムシフトが発生する」(世界秩序が変わる時)
アメリカ社会におけるカトリックの宗教的なものへの回帰などはこういったパラダイムシフトの中で起きてきているものではないのかと捉えている。そういった共同体への回帰的なものが2020年代のトレンドであろう(安全保障・主権的なテーマ含めて)
しかし日本においては宗教的なものはタブーぽくなってしまっている。その中で、自分の言葉でいう金融的身体性を脱却していくためには何をしたらいいのだろうか?ということが今問いとして問われているのではないかと思っている。そこにおいては一つは参政党的な共同体への回帰や陰謀論的な流れの動きにのるとかもあるだろうが、乗り切れない人も多いだろう。
そういったときに社会や人間とか生きる意味とかそういったものを哲学的態度によって捉える必要性があるときに、今の人文知的なものへの関心が高まっているのではないかと思っている。そこに今の新自由主義からのパラダイムシフトや、金融的身体性/金融化された主体性からの脱却への希望を見出しているのではないか。
ただ勘違いしないでほしいが自分はお金は好きだし、ビジネス的価値観は好きである。一方で確かに行き過ぎた金融資本主義も感じでいることも確かである、その資本主義と美学的なバランスがとることが重要な気はしてるが、これ書くとまた長くなるので一旦割愛。
何が言いたいかというとそういった時代の価値観の変化のタイミングのときに、こういった人文知というものが新しいパラダイムシフトへの手がかりとして見立てられているのではないかという仮説がある。あっているかはわからない。
ニューアカデミズムの韻
また、これもよく言われる話ではあるかもしれないが浅田彰などのニューアカデミズムの韻を踏んでいるという指摘はある。ニューアカ(ニュー・アカデミズム)」は、1980年代前半の日本で、大学の専門知をポピュラーな文体と編集術で一般読者へ流通させた知のムーブメントだと知られている。
この1980年代はバブル崩壊前で、空前の好景気だったのではないかと思う。また学生運動的な活動は失速しており、資本主義的消費社会が急速に浸透していった。そんな情報化社会/消費社会へと変化が激しいときに時代をどう読むかについての一つのヒントとしてそういったブームが形成されていたように思う。
これは今のテクノロジーや特にAIなどの外部環境の急速な変化と一般的には今は日経平均含めて非常に高くついている。インフレもあるが好景気とも言えるだろう。更にウクライナ侵攻もあり、自由民主主義が勝利していたという幻想も打ち砕かれ、更に新自由主義的な価値観も限界が迎え、いわゆるリベラル的な価値観も反動をくらっている。そうした中で何をしんじるべきか含めたニーズというものが浮かびあがりやすい時代になってきているのではないかと思う。
そういう意味においては韻をふんでいる気がしている。なのである種のブーム的な要素もあるのであろう。ただ注目されていくことは良いことだと思っていて、悲観的には捉えていない。一方でこれさえも資本主義の論理にまきとられすぎるのも違うとは思う。絶妙なバランスが必要であろう。
自分もまだANRIでいるうちに許されている限りは奨学金やこのあたりの問いはずっと考えていきたいと思っている。まあなにがあっても自分の人生はこのあたりの問いのゾーンからは抜けれないんだとも思う。なので、今後も人文知といった分野がどのように社会と接続されていくのか、どのような見立てになっていくのかはライフワーク的にも考えていきたい。
何はともあれ第二期応募お待ちしてます
と、つらつら書いてきたが、このnoteの目的はANRI人文奨学金の第二期始まりましたよー!ということだ。ぜひご応募をお待ちしてます。
-プレスリリース
https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000083.000040191.html
-募集要項など
https://humanities-staff-hash.github.io/anri-humanities-2nd/

