#116 余白と仏教。仏教は遊び/余白/趣味をどう見立てるのか
~元ベンチャーキャピタリストの住職に、無駄なことの意味を訊く~
紙のメルマガの時代通信を終わらせてから、そのタイトルの時代通信をこちらのメルマガに引き継がせて貰った。
ドメインはその前のままのWhat’s to Comeからそのままにしているが、まあ関心とは同じだし記念にそのまま残している。
次なにが来るのか?は、時代通信とほぼ正直個人的には同じだし、多分時代通信を英訳したらWhat's to Comeになるとおもう(ならない)
余白会#2 ~余白と仏教~
そういった中でこれから動画っぽいものを一旦増やしていくつもりではある。今回初めて自分でスタジオを借りて録音したのが、今回の余白会#2である。
前回この下のPodcastを5月ぐらいにアップロードしたのだが、投資先のRendez-vousの代表の浅岡さんと、余白というものは何なのかについて話した。
遊びでも趣味でもなく余白。いまの時代に足りないものなのではそういった概念ではないのかと自分も思ってさらに深堀りたくなった。
その時に、自分の中ででてきたのが、目黒・高福院の住職、川島俊之さんだ。以前いくつかのイベントで一緒になったり、イベント呼んでいただいたりしたことがあり、なんとなーく仏教って余白っぽいなということを考えていた時に、浅岡さんと合わせたいとおもってこのPodcastを企画させていただいた。
足るを知るという生き方も余白っぽいなということを前回話していた時に自分も考えたことであり、仏教的な考え方において余白というのはどのように捉えているのかについて聞いてみた。
余白に対しての理解度が上がるよいコンテンツになったとおもうので、2時間ほどあるがぜひ2倍速とかで聞いてほしい。
Spotify
ただ、謝罪するとはじめての配信で少し音がちゃんと拾えていなく、AIで補正して聴けるようにはなったがだいぶ聞きずらいところもあると思う。本当に申し訳ない。
なので毎回するかはわからないが、今回は大事な部分をAIを活用して文字起こしをさせていただいたので、ぜひ時間ある時に呼んでほしい。
今後も余白という概念はもう少しふかぼっていきたい。
1. 「うまくなりたい」と言った瞬間に消えるもの
中路:まず、浅岡さんのなかで余白の定義がアップデートされたと聞きました。
浅岡:前回は曖昧だったので、ちゃんと五つに定義しました。非日常であること。非合理的であること。没頭できるものであること。能動的であること。そして、知識やスキルが必要なものであること。この五つです。全部を満たす必要はないんですけど、満たしている軸が多いほど、得られる余白が強い。余白強度が上がっていく、というイメージです。僕はもう、五個満たさないと来ないんですよ。ぐーっと来ないと来ない。
中路:川島さんから見て、これはどうですか。
川島:最近マインドフルネスとか瞑想がブームじゃないですか。Googleが研修でやっていたりして。ただ、ああいうところで必ず「何のためにやるんですか」と訊かれる。生産性が上がるのか、メンタルが良くなるのか、と。仏教は、それとは全然関係がないんです。何かのためにでもなく、お金を持つためにでもなく、健康になるためにでもない。でも、そういうものこそが大事なんじゃないの、というのが仏教の根底に置かれている。
浅岡:根底にあるんですか。マジで。はじめからすごいじゃないですか。
川島:ええ。だから逆に、お寺とサウナは似ていると言われるの、僕はあんまりそうでもないなと思っているんです。坐禅もサウナも座っていますし、寺でサウナをやったらいいじゃないかと結構いろいろ言われる。お寺によっては境内を癒しの空間にして、それはそれで近いものもあって、ダメだと言っているわけじゃないんですけど、僕はちょっと違う感じで。
浅岡:今の話はすごく僕の感覚と近くて。サウナで整うのが余白だという人は、たぶんサウナに対して非日常と没頭の二つくらいを満たせているわけです。でも川島さんの場合、坐禅は非日常じゃない。
川島:毎日ですから。
浅岡:けど、能動的でスキルが必要だというところを、ものすごく高いレベルで満たしている。通常の人が一回体験で坐禅に行きますというのとは、わけが違う。だからサウナとイコールとは言えない、ということなんですね。
川島:ここがとてもややこしいんですけど、坐禅が「うまくなっている」のは、ちょっとまた違うんですよ。スキルは間違いなく要る。坐禅に慣れていない人は姿勢が崩れていたりする。ちゃんとやっている人は姿勢がいい。だからスキルは好きなのかもしれないけど、うまくなりたいと言った瞬間に、やばくなっちゃうんです。
浅岡:ああ。でもそれは僕も同じです。スキーがうまくなりたいとか、一位になりたいとか、そういう目的ではない。プロを目指すかと言われたら、目指しはしない。僕はね、余白が得られればいい。ただ、必要なスキルレベルは上がっていくんですよ。ゲレンデで滑るだけで余白を得られていたのが、それだけだと足りなくなってきて、じゃあ山に登っていこう、と強度を上げていく。
中路:目指した瞬間に余白じゃなくなる、という感覚はありますね。
浅岡:僕は余白の条件が厳しくなっていくんです。でも、全部が全部その余白レベルじゃなくていいじゃんというのが、前回から今に至るまでで考えを改めたところで。サウナ行って余白ですという人も、めっちゃいいじゃん、と。
川島:僕自身は、余白は「生きていくということと関係がない」ものだと思うんです。
浅岡:今後それ、めっちゃ使います。必要不可欠ではないんですよ。だからこそ意味がある。これが生きるために必要なものになった瞬間に、余白じゃなくなっちゃうから。
2. 向こうから、やってくる
川島:僕は実は、ずっと弓道をやっていたんです。中学生のときに病気をして手術をして、ハードな運動ができなかったんですけど、弓道は一生懸命やっていて。大学では日本一を目指すみたいな。
練習して練習して練習して、試合になったときに、アドレナリンが出るのか身体の方はわからないんですけど、何かが降りてくるみたいなものがあって。極端な集中状態のときに、実力以上のものがなんか降りてきちゃったみたいな感じがするんです。
浅岡:めっちゃいいお題です。ありがとうございます。その状態が余白の境地で、余白状態の最高がフローだと思っています。ただ、フローに行くには五つ全部を満たしていて、かつかなりの強度でないと出ないと思ってるんですよ。僕の経験では。
僕はボクシングをやっていて、あの瞬間、スローモーションに見えたんですよ。マジで。絶対に真ん中に当たるって分かる。
川島:そういうときって、没頭しているというだけじゃなくて。僕の弓道ってかなり緻密で、手と指がどういう風に当たっているかを、すごく厳密に、ちゃんと体をコントロールしているわけです。緻密に体をコントロールしているという側面と、一方で無我で、体が降りてくるという側面。両面あるような感じがするわけです。
中路:集中していることを忘れるくらいの、という。
浅岡:没頭も一個の要素にはなっているんですけど、没頭だけでもダメなんですよ。時間を忘れてずっと本を読んでました、でフロー状態になることもなくはないかもしれないけど、他の要素もないと出づらいのかな。
川島:めちゃくちゃ嬉しいですね。坐禅をしてすごく良い悟りの境地に近づいた感じというのは、今おっしゃったゲームで超集中している状態なのかということを、仏教は明確に否定しているんです。フローという概念は心理学者が言っていて、あの理論のなかでは結構ごちゃごちゃになっている。ゲームで集中してもフローだと。でも僕自身が思うのは、まさしく弓道でのあれだった、と。
浅岡:一回でもそういう境地を味わえちゃうと、どんどんやりたくなるんですよね。完全に麻薬です。でもあれを追い求めちゃってるんですよ、どこかで。それは合理を突き詰めた先にはなくて、余白の強度を高めていったときにある。
中路:過程が辛いものもあるんじゃないですか。
浅岡:辛くはないんですよ。楽と楽しいは違う。楽ではないけど、その過程を楽しいとは思います。ベースは能動的にやっているから。嫌ならやめればいいじゃんって話なんですよ。それが受動的になると、やらされている状態だともうダメだし、たぶんフローも出ない。
3. 無我 ── 『やっぱりオオカミ』は何の物語だったのか
中路:仏教から見たときに、余白はどういう位置にあるんでしょう。研ぎ澄ましていくことに意味があるのか、何も考えないことが仏教的な余白なのか。
川島:仏教が目指すのは無我です。無我というのは、我をなくすということですから。無我の境地。スポーツとか趣味で「無我の境地」という言葉をよく使いますよね。あれはまさしく余白というか、無我ですから、さっきのエゴイズム、生きていくということ、自己を維持していくということから離れるという意味です。死んでもいいという意味じゃなくて、生存というものと関わらない事柄が我々にはあるのではないか、と。
実は芸術家がこういう話をすることがあって。民藝運動というのがあったでしょう。一般の方たちが作った陶器や、無名の作家が作ったものに美を認めるという運動で、柳宗悦がやった。この柳さんという人は、実は仏教の本を書いているんですよ。四十万部くらい売れた本があって。
そこで言っているのが、無我の境地です。何かいい作品を作ろうとして作っているというよりは、やっぱり高い集中度合いに入ったときに、何か向こうから作品がやってくる。さっきの僕の弓道と同じで、何かが来るんです。自分がかっこいいのを作るぜ、ではない。能動的に一生懸命やっている果てに、無我の境地というものがやってくる。
浅岡:それを僕らはフローと呼んでいる。川島さんすごいっすね。これ、すごい話ですよ。僕は何の台本もないし、マジで仏教知識ゼロなんです。この回が決まったときに、あえて何も勉強しないですって言いました。フレッシュに行きたいから。本当に知らないですけど、ドンピシャっすね。
川島:それで、少し前の話に戻るんですけど。前回、浅岡さんが「自分のコアに入っている」とおっしゃっていた絵本がありましたね。
浅岡:『やっぱりオオカミ』。狼がいろんな動物と暮らすなかで、仲良くなろうといろいろ考えるんですけど、結論、仲良くなれない。でも最後、俺はやっぱり狼だからと言って、自分らしく生きていこうという感じで終わる。
川島:これは実は、無我のことじゃないかなと思っていて。ちょっと変わった解釈かもしれないですけど。
お釈迦さんが亡くなるときに、弟子たちが「あなたがいなくなったら、僕らは何を頼りに生きていったらいいんでしょう」と訊くんです。その答えが二つあって、一つは法灯明。仏教の教えを頼りに生きよと。もう一つは自灯明、自分を頼りに生きよ、と言われた。
これは仏教の根幹の大事なところだと思っていて。無我だと言っているのに、自分を頼れと言う。
浅岡:確かに。
川島:我々は普通、生存とか、わかりやすい欲望を持っている。ご飯を食いたい、みたいな。そういうエゴイズムの自己というのは、普通の自己なんだけど、それを捨てていって、それも無になったときに、本当の自己と言っていいのかわかりませんけど、無我の状態の我が発見される。
あの絵本は、二つのレイヤーで読めるんです。誰も友達になってくれなくて、ケッとか言われて一人ぼっちになったら、嫌じゃないですか。寂しくて気が変になると思うんですけど、ところが、自分一人で生きていくと腹を決めたときに、すごく世界が美しくなったという話でしょう。
僕が僕であるということって、冷静に考えて、「俺はこんな顔をしていてTシャツを着ていてマイクを持っていて目黒に住んでいて」というのを確認した上で、俺は川島だと思うわけじゃない。自分が自分であると分かるときは、性格とか見た目とか何も考えなくても、自分は自分だと分かるじゃないですか。自分が自分で分かるということ自体が、無我なんです。だから、内容とかそういうことじゃない。俺はこの俺を生きるしかない。
中路:金を持ってるとか、何歳でこうだとか、そういう話でもなく。俺は俺だった、と。
浅岡:川島さん、これ、めっちゃ言語化された。
川島:さらにあるんですけど、立て続けにいっちゃっていいですか。この付箋のページ。自受法楽と書いてあるんですけど。「自」というのは、要するに自分しかいない。で、「受法楽」の楽は、自由という言葉じゃなくて、味わうという言葉なんですよね。自分一人なんだけど、世界を存分に味わっている。そういう境地です。
浅岡:僕、この絵本には第二話があると思ってたんですよ。「気持ちが楽になりました。なんだか嬉しくなりました」と言って終わるじゃないですか。ここからの狼、幸せそうだなと思って。だから無我の状態になったってことなんですね。この状態の狼、最強じゃん。
川島:ちなみにこれは、僕にとっては法話の材料にもなるくらい近いものでもあるんです。現代人は仏教ってややこしいなという感じがするけど、こういう素材がいい。
浅岡:これ、僕というより僕の母がずっと読ませていただけなんですよね。でも確かに、今言われていたほど解像度は全然高くなかったけど、言われるとなんか回収されたというか、僕の人生も肯定された感じがします。
4. 共同体の危うさ ──「五大に皆響きあり」
中路:今、たぶん生きるのが苦しみやすいんですよ。誰よりもこうしたい、こうしたいと比較して。SNSなどの影響も少なくはないかと思いますが。
浅岡:そこです。すごい、今日の悩み相談したいことがある。まさにいいパスを出してもらっている。
僕は余白がいいぜと思っている。心の底では、みんな余白を持った方がいいと思ってる。でもそれを誰かに伝えるというのは、すごく怖いんです。強制になってしまう。余白ハラスメントをしているわけですよ。「余白がいいぜ、こうしないとやばいよ」とか言いたくないんです。言いたくないんですけど、心の底では思っている。
余白って言われても、そんなこと言ってる場合じゃねえよという人だって多いわけです。そういう中で余白余白と言うのも難しいなと。でも僕はその中でもスタンスを切って、それを伝えていくことが一種の使命だと思ってる。ただ、ちょっとどう注意していけばいいんだろう、と。
川島:どこから来るんですかね。ちょっとずれるかもしれないですけど、前回すごく印象的だったのは、浅岡さんが「仲間」という表現をされていたことです。その仲間って、どういう感じの仲間なのか。
面白いというか難しいと思うのは、やっぱり二項対立ですよね。普通の言葉を喋っているレベルでも「俺らの仲間だよね、共通の趣味も持っているよね、同じことを考えているよね」という繋がり、仲間感ってあるじゃないですか。これは結構、こっちは危ないんです。
例えば野球などの応援で仲間を決めると敵ができる。正直、違和感があるっていうか、仲間!仲間!というふうにやって、コミュニティとか共同体とかね、そういうのはあるじゃないですか。でもこれ、危うさもあるんでうよね。
ただ、大我1の話のレベルというのは、言葉がもうない次元だから。そこではもう「余白を持たなければダメだな」みたいな話はもはやなくて、浅岡さん自身が余白を体現していて、別の人も理想的にはですけど余白を体現している中路さんがいて、二人は別に言葉もないんだけど、余白同士が響き合う。
浅岡:これ、仲間です。今おっしゃっていただいた、余白を入れている、重要性を分かっている者同士は、僕にとってすごく強い仲間って感じになるんです。
中路:属性じゃなくて、ですね。
川島:属性じゃなくても、なんかどこかにないと。弘法大師の「五大に皆響きあり2」という言葉があって。五大というのは、つまりその、言葉じゃなくても響き合うんだ、というふうに言っていて。響きがあるんですね。生き物とか、あるいは世界が常に振動している。
浅岡:「響き」という表現は、すごくヒントでした。
川島:たとえばお祭りとか太鼓とかって、単純な拍子で、大きいタイプでドーンドーンドーンみたいな。世界のお祭りって単純なリズムのものが多いんですけど、そういうものの引き上げみたいなものが、結構繋がる。
浅岡:ありそうな気がする。「響き」というワード、強いな。これ、結構大ヒントかもしれない。
中路:何か明言できるものに繋がり出すと、ちょっと危険だという。
浅岡:そこがずっと悩んでたところだったんですよ。前回のポッドキャストのときは、逆に決めてしまおうという自分もいたんです。余白は全部満たしてないと余白じゃないみたいな。でもそれも違うなという自分もいて。要は、排他的になりたくない。結果的に排他的にならない方に振ったんですけど。
極論、こんな定義なんてなくとも、余白が響いて、みんながその余白というものを感じられるのが究極系なのかなと思いました。
5. 起業は、芸術作品になれるか
川島:一方で、僕らは言葉を使わないといけない。共同体を作らないといけないし、当然、会社だったら会社も一つの共同体になるわけですから。お寺も正直言えばビジネスの側面がありますから、会社を潰しちゃいけないのと同じように、お寺も潰しちゃいけないという面もある。
だから、そういう普通の競争もあるし、ロジックもあるというレイヤーと、さっきの自受法楽のレイヤーと、その二つが重なっているようなビジネスを作れないかと。
浅岡:わー。ちょっと川島さん、そこっすね、目指してんのは。僕、過去一レベルで人と話して感動しているかもしれないです。
さっき川島さんに言った、稼がなきゃいけない現実としてのエゴの舞台と、自受法楽的な考え方。この二つを兼ね備えるというのが、かなり僕らのテーマで。やっぱりどっちかだと、今の資本主義のような中では成り立たないじゃないですか。両方を備えている会社がかっこいいと思うんですよ。そうなりたいと思う。
川島:そういう会社が増えてほしいと思うんですよね。この間、起業を芸術作品として見ることができないかという問題を考えていて。
まさしく今の話も、芸術に近いなと思っていて。芸術はさっき申し上げたように、無我の境地は向こうからやってくる。余白はまさしく芸術とかスポーツと非常に近いところにある。そういうものをビジネスから体験するというのは、めちゃめちゃすごいと思うんですよ。
でも実際、ポップミュージックのミュージシャンがいたり、売れている芸術家がいたり、規模を拡大している人ももちろん、金勘定の中にいるじゃないですか。金勘定の中にむしろそういうのが見えている。さっきの狼と自受法楽と人間関係みたいなものが、アーティストだけじゃなくて、お客さんとの関係の中でも何か芽生えている。ひょっとしたら、浅岡さんとRendez-vousのお客さんの間にも、自受法楽的なコミュニケーションみたいなものが生まれてくると、何かすごい芸術になっていくのかもしれない。
浅岡:川島さん、ちょっとなんで僕の脳に入ってました? 住んでました?びっくりする。今のオーナーさんと僕らの関係というのは、まさにそうで。同じ余白というものを大事にしていることを、何よりも僕らのオーナーへの見方と関わり方にしている。だからめっちゃ審査があって、そうじゃない人たちはこのコミュニティとしてはごめんなさい、と。その人が社会的にどうとか全く関係なくて、僕らのこの共同体として、これを共有したいものかどうかで選んでいます。
6. 身体と、AIと、祭り
中路:西洋の哲学は頭で考える。理解する。でも仏教とか東洋的なものは、まず座る。修行から入るか、体を動かすことからまず始めようというテンションがある。やってみてからフィードバックして、何を大事にしていくかを決める。このトライの仕方が、すごく仏教的だなと。
川島:デカルト以降の近代哲学はそうですよね。哲学者によっては「体は関係ないよ」みたいな。一方で東洋の哲学は、体を動かすこと。球を打ち合っているのも、剣道とか武道なんかも。
僕は「降りてくる」という感覚が入口になっているので、体を動かして、すごい精密に体を動かした果てにやってくる感じというのが強いんです。僕はずっと身体性重視でやってきた。
ところが。寺で西洋哲学の勉強会をやっていて、僕の師匠の哲学者は「カントとかって頭だけみたいに西洋的って言われるけど、実は仏教と近いことを言ってるよね」という論点だったんです。ただ、西洋哲学から仏教に至るというプロセスの方は「いやいや、体は関係ないで」とおっしゃる。今まで俺がやってきたのは何だったんだろうみたいな感じで、すごく今、悶々としているところなんですね、正直。その人は瞑想とも言っているんですよ。なんだけど、身体は全然関係ないってはっきり言い切る。
最近、映画『急に具合が悪くなる』を観て。哲学者と人類学者、宮野真生子さんと磯野真穂さんという二人の女性の学者のやりとりが原作で、この二人は魂のやりとりをしているわけです。でも片方は亡くなってしまっている。死んじゃったら、もう身体性のこともないような気がするから。そうすると、魂のやりとりに身体は関係ないような感じもするんだけど。
あれは身体性バリバリなんですよ。体に触れることで人と人が通じ合うという。だから、魂のやりとりのときに身体が関係ないのか、どっちなんだろうと。
浅岡:うわー、答えが出ない感じが、なんかこれ、いい。
川島:ちなみに一応、仏教的にはということで言うと。体と心は繋がっているよね、と。ただ、心は脳の中に入っていないと僕は思っていて。心は形じゃないですから、大きく伸び広がっている。しかも身体と、心の伸び広がった体は相互に密接に関係している。その意味で、我々は心と心を自受法楽同士で交わしている、ということです。
中路:ちょっと飛ばして先に話すと、これが僕の今のテーマなんですね。AIとか、こういうスタジオで撮っているのもそうなんですけど、ぶっちゃけZoomで撮れれば時間も場所も気にしなくていい。でも、ここで体がストロークすることの意味。合理的なところじゃないところ。
身体が止まること、身体が移動することは面倒くさいはずなのに、また祭りとか、そういうものに帰ってくる感覚がする。これは何なんだろうと。Rendez-vousもそういうことをしていると思うんです。ウェブサービスの方が楽じゃないですか。行かなくてもできるのに、わざわざRendez-vous倉庫に行って、みんなで雨の中ドライブしたりして。
浅岡:雨の中、かなきんでカート乗せましたね。ビショビショになって。
中路:それが楽しみになっていく。AIができて、とうとう人間とは何かという。頭の良さが価値だった時代から、すごく身体っぽいものにより戻る可能性がある。
2020年代に、すごく身体を使った体験とか、旅行系のイベントとか。情報だけだと、すぐGoogleマップを見るでしょう。YouTubeで見た方が。でも移動して、実際に身体を動かして、まず感じること。この空間で自分が気持ちよいのはどこだろうと。人によって違う。良い悪いよりかは好き嫌いみたいな、この感性の感じみたいなものを、もっと大事にしていった方がいいんじゃないかな、と。
浅岡:身体性って、積み上がっていきますよね。自分の体でやることだから、感覚として残っていくし、積み上がるものな気がするんです。中路さんの場合も、実際リセールとか考えて車を買ったじゃないですか。これで一個基準ができたから、別の車に行ってみると。その中で自分の美意識とかスタイルが積み上がっていく。
浅岡:僕、今日決めましたよ。九月にシンガポールに行きます。なんでかというと、シンガポールにオートバーツ・モーターズっていう車屋があるんですけど、車の自販機があったんですよ。十五階建ての、車しかないスケルトンのビル。十五階建て。見たい。それだけです。
写真でもすごいインパクトなんですよ。そこでベルトコンベアが動いてる姿とか、そこから車が出し入れされる様子とか。実際に生で、夜の真っ暗の中、ライトが光って車だけが照らされて出されてる姿を見たら、絶対これ、なんかヤバいなと。僕にとっての余白ですね。能動的に、一種これ非日常かもしれないですけど。本当に、そのために頑張ろうっていうか。
7. はからずも ── エフェクチュエーションと縁
浅岡:川島さんはどうしていくんですか。川島さんの境地は。
川島:個人的に何をしたいのかと言われると、別にないんですよね。こうはなりたいみたいな、確固たるゴールみたいなものはない。
確固たるゴールを目指して、それに向かって進むというのは、完全に今の世界と同じになってしまって、仏教的なあり方とは少々違うかなというところがあって。
この間、神戸大学で話したときにエフェクチュエーション3という話をしたんです。聞いたことありますか。バージニア大学のサラス・サラスバシーという先生が提唱している経営理論で、スタートアップの経営者がうまくいくための条件を整理したものです。
その対になるのがコーゼーション4。要するに、何か目的を設定して、ロジカルにやる。大きな事業計画だったら「こういうマーケットがあって、ここで十億ぶっ込んだらいくら返ってくるだろうな」みたいな、そういう事業計画の立て方ですけど、スタートアップってそうはいかないわけです。手持ちの資源も少ないし、そういう中でいろいろ出会いがあって、それでやっていくみたいな面がありますよね。
だから、仏教的なあり方というのは、自受法楽の人たち同士の縁というものがはからずも繋がっていきながら、どんどんいろんなものができていく的なところがある。さっきのどーんと規模を目指すという大戦略みたいな夢の持ち方とは、やっぱりちょっと違うかな。
中路:これは面白いですね。やっぱりスタートアップとはそういうことだと思います。Rendez-vousなんて、クラシックカーからはじまりどんどん拡大していきましたからね。
浅岡:そういうことですね。でも、自受法楽同士の、これもまた一つの縁があったからRendez-vousもスタートできたし、やってる中でいろんな人の助けがあったから、意見だったりも含めてこの形になっていて。だから逆に、この先はわからない。逆にそれを知ってるからかもしれない。でも、いかようにもなっていけそう。それが楽しい。
川島:僕、グローバル・ブレインでベンチャーキャピタルを自分でやっている時は、ものすごい理屈を一生懸命考えて、僕が儲かって、相手も儲かって、こういう人間関係をどういうふうに作っていくかということを一生懸命やっていたつもりだったんですけど。そうじゃなくて、はからずも良い案件、どこかの良い社長とはからずも出会ったというのは、本当に関係なかった。
計算通りやったからビジネスが盛り上がる。もちろんそれも大事なのだけど。一生懸命、一生懸命やっていると、さっきのスポーツの話のように、向こうからやってくる。
浅岡:いや、それでしかないですね。僕は。それでしかない。仲間もそうだし、仲間との出会いも含めます。今日も。全スタートアップ経営者に聞いてほしいです。
中路:最近のスタートアップを含めて、いろんな世の中の問題は、正解がありすぎるよな、と思うんです。こうやったらいいっていうのがネットの情報とともに落ちすぎていて。それはありがたいけど、学びすぎて窮屈になってないか。こうじゃなきゃいけないみたいなところが多すぎて、でもあるから見ちゃうじゃないですか。
でもこうやってメディアで伝えているから、僕らもひょっとしたら、そういう正解っぽいものを作ろうとしているかもしれない。僕は「そういう考え方もあるよ」ということを知らせたいなと。どうしても「正解はこれです」とではやりたくない。でもどうしても、見られるコンテンツはそっちなんです。
本質を決めた瞬間に、本質以外のものを否定することができちゃう。「ベンチャーはこうだよ」みたいなことを言った後に、そうじゃないことをやってたら「お前違う」って感じになるから、本質を求めるということは結構危険なんじゃないか。たとえばユニットエコノミクス、LTV/CACが三倍以上だったら、とか。それはいつの基準でどうだったんだ、と。
川島:ズバリ「正解」というものが実体としてズバリとあるわけじゃない。
中路:日本文化の見立ての力。砂の帯みたいな見立て、日本庭園に含まれている見立て力。日本文化って見立て力が高いなと思っていて、見立て力みたいなことは投資においても生きる。それを知りたい、勉強したいという気持ちです。
浅岡:VCって名乗らないことですよ。見立て屋として看板を立てた方がいい。職業です、本当に。だってもうそういう話です。僕も、要は投資してもらう起業家としての立場で中路さんを見てても、そう感じます。いい意味でVCっぽくない。
川島:新しい看板が必要ですよね。ベンチャーキャピタル業界もそういった意味でつまんなくなっているのであれば、見立て屋という新しい看板を立てる、ということですね。
8. 魂ではなく、「魂の響き」
中路:川島さんが、これから考えていきたいテーマは。
川島:僕も一貫して、さっきの自受法楽同士なんですけど。ただそれは、やっぱりなるべく伝わりやすくしたい。世の中、結構寂しいということと、人のつながりが本当に希薄になってきているという感じがして。
アメリカで人間関係がどんどん薄くなっていく中で、じゃあどう繋がるかというと、全体的に「僕のためにテックで頑張ろう」みたいな話になってきた。人間のつながり方が変な形になってくると、政治的にも変になってくるという面があるので、いい感じの人のつながり方をつくれるのかな、というのが一番のテーマです。
そのために、なるべくわかりやすいものを探していて。最近、魂って言葉が日本人に一番しっくり来るかなと思っていて。ワールドカップの前に長友さんが「魂を入れる準備をしてください」と言ったり、ソニー魂とか。魂と割としっくり来ることがあると思っていて。ちなみに、家族からは「あなたは魂レベルが最も低い人間だ」と言われています。昔からVCの仕事とかで金がすごい厳しいとか、家族に対してもぐりぐりやっていたので。
浅岡:魂って、どういう。
川島:弘法大師は、普通の意味の「我」と、自受法楽の状態の我を分けて、後者を大我と言うんです。無我の状態の我。この大我イコール魂、というふうに私は使っていて。「大我」と言ったら「何それ」と怒られちゃう。ところが日本人はみんな「魂」という言葉でそれを表現してきたんじゃないか。魂を育てるとか、魂の交流みたいな。
浅岡:僕の中で正直、大我と魂に乖離があります。大我が余白というのはすごく納得しているんですけど、魂って言葉がちょっといろんなところで使われていて、なんか熱いもののイメージもあるし。
川島:みんな使っちゃってるからこそ、いろんな使い方をされるので、悪用もされるところがあるじゃないですか。さっきのKO魂だと言って何か言ってたら気持ち悪いみたいな。そういうのもあるし、ちょっと難しい。
中路:言葉は何でもいいんですけど、そういうものを磨く練習ができるかどうか。たとえば採用で、TOEIC900点を基準に決めると、定量的で簡単だよね。でもそれだけだと、なんかしっくりこないじゃないですか。その「しっくりこなさ」とか、言葉にできないものに対する共鳴というか。
浅岡:めっちゃ面白い。響き。
中路:響き。
浅岡:バイブスって言えばバイブスなんですよ。今の採用の事例で言うと完全にバイブスでしかないんですけど、「それバイブスだな」って今思いながら聞いてて。
川島:いいですね。今回は、五大に皆響きあり。五大というのはイコール、この大我なんですけど。ただ五大というのは、火とか水とかの原子みたいな話じゃなくて、僕らの見えないところで動いてる力みたいな感じ。だから、言葉にならないんだけど、波動だった。
浅岡:じゃあ、魂じゃなくて響き。今の傷、めっちゃ響き飛びしてきましたよ。魂の響き。魂の響きなら、なんかすげえニュアンス分かる。
9. 余白とは、可能性である
中路:僕、自分自身が空っぽだと思うんですよ。あんまり強い意志とかない。仕事をやっている、その上でリターンを出す。そのために自在に。本当に全部取り出して「お前がやりたいことはあるんだ」というと、ぱっとはない。次に知りたいという好奇心はずっとあるけど。
浅岡:でもさっきの、問いを立てるとか、いろんな見方を得ていくみたいなのが根源的なのかな。
中路:どうしても一体化しすぎてるかもしれない。八年、九年くらいやっているから。
川島:それはこだわりがないというか、自由に旗を立てられる立場でいて。難しいのは、GPになると縛りのイメージが出てきちゃうけど、ぜひ両方で。
中路:いろんな可能性の幅を広げたいというのが、ずっと僕の中では。
川島:今の「可能性」という言葉、僕、すごくビビンと聞いていて。余白ってやっぱり可能性だな、と。
現実性と可能性という区別があると思うんです。現実性ってあるわけじゃないですか。ここにマイクがあるとか、スマホがあるとか。理解できるし、普通に意識できる。可能性は、どうなるかどうか全然わからない話。僕らも信仰をやっているわけですけど、信じるというのは現実の世界じゃない。可能性のレベルにある。
だから、可能性の芯というレベルを、いかに守れるかということが大事。
中路:可能性派として、可能性がある。可能性を信じよう。
浅岡:今日、本当に可能性が広がりました。
仏教における「大我(だいが)」とは、煩悩や執着を離れた、悟りによって得られる絶対的で自由自在な境地のこと
仏教において、宇宙や万物を構成する5つの要素(地・水・火・風・空=自然界のすべて)には、どれも独自の「響き(音・振動)」が存在している。川のせせらぎや風の音、花の咲く姿、人の声や日々の体験に至るまで、世界に満ちるすべての現象は無意味なノイズではなく、宇宙全体が私たちに語りかけている言葉(メッセージ)であるという、密教ならではの詩的で奥深い真理らしい。
エフェクチュエーション(Effectuation)とは、予測不能で不確実な状況の中でも新しい価値や事業を創り出す、優れた起業家に共通する思考・行動プロセスです。経営学者のサラス・サラスバシーが提唱しました
コーゼーション(Causation)とは、明確な目標を最初に設定し、そこへ到達するための手段やリソースを過去のデータや予測から逆算して計画的に進める意思決定のプロセス


