最近たまたま”狂気”という言葉について、話をしたり聞いたことがあったので取り上げてみる。起業家には狂気が必要だという。しかし狂気なんてものは言葉の通り狂っているので、マイナスイメージであるのになぜか。
そもそもなぜ起業家に狂気は必要なのか。正直べつに起業家全体に狂気は必要ないんだと今は思う。正確にいうとスタートアップをするということは狂気性があるべきなのかもしれない。それは何度も最近使うが、自分の中でスタートアップという言葉の定義を考え始めてはや数年だが、最近ある定義で明確にした。それが身分不相応性という定義だ。身分不相応な挑戦・状態であることを目指しているかがスタートアップであるかどうかではないかということを自分の中では仮固定の定義とした。
そうすると身分不相応なことをやることは狂っているんだと思う、ある意味では。そういった狂気の存在がスタートアップたらしめている気がする。ただここでいう狂気っていうのは何も考えず狂ったことをやってほしいという感じではない。例えば何も計画はないがいつかGAFAMを超える企業をつくる!とかは狂気だが、スタートアップの起業家として求める狂気ではない気がしている。狂気とはなんだろうか。
狂気
“狂気は自然にある病気ではなく、その時代の「理性」が自分の外側に引いた境界線である”これはフーコーが狂気の歴史の中で語ったことではある。この言葉は結構しっくりくる。その時代の理性が自分の外側に引いた境界線。これは常識とかそういったものに当てはまると思う。つまり身分相応であり合理的にみえる考え方は理性の働きが多いのではないか。
しかしそういった境界線で見ていると常識の範囲内での打ち手しかうてなくなってしまう。そうすると身分不相応な挑戦ができなくなってくる。狂気とはその時代の理性=合理性の外側にいく勇気でもあるような気がする。
かといって全ての狂気が正しいわけでもないし、冒頭書いたように夢妄想だけを話していくことが良いわけでもない。その点フーコーもこう書いている。
狂気がある人の中から真理を見つけて、人間の真理として健常者の側に引き受け直す作業をする人を弁証法的人間と呼ぶ(創造性と狂気)
ヘーゲルの弁証法から引用しているのだとおもうけれども、これはスタートアップ業界でいうピーター・ティールの名言にも近いものがある。「賛成する人がほとんどいない大切な真実は何か」とうこともこれに近い表現であるように思える。
学ぶと正気へ戻りがち
しかし狂気で始めたものの学んでいくと正気に戻ってしまいがちなきがするのもある。例えば身近な投資の仕事でもいうと、キャリアの始まりのほうがいろいろわからないことが多いから素直に狂気になれたし、そういったことを信じることができた。一方キャリアを重ねることによって、どんどん人は正気になる。これはできるこれはできないといった境界線が自分の中で作られてくる、理性的になってきてしまう。
よそ者 若者 馬鹿者が社会を変えるというのは誰が言ったことばかはわからないですが、それは正解な気がしていて、多分正気じゃないことができるから、狂気をもちやすいからだと。
いまスタートアップ業界で起きている議論の多くもだいぶ正気になってきたんだとこのことを考えていると理解が進んだりした。例えばM&Aを考えようとか含めて、すべて正解である気もしているが、ラーニングが進んできたことで業界全体が正気になってきている感覚もある。
これは自分へのブーメランでもある、ベンチャーキャピタルとして9年ほど経ってきた今キャリアの始めのほうが狂気というか、正気ではない投資をできていたのかもしれない。もちろん
アセットクラスとしてベンチャーキャピタルは狂気をもとめられている
VCにお金を預ける人は安定的な運用をではない、IRRのようなリターンの利回りを求めているのではなく、大きなマルチプルを求められている。つまりは大きな成功を出すことを求められており、全体がほどほどの成功をしているのでは求められていない。
一方で学んでくると正気になってくるし、目の前の起業家全員に当たり前に成功してほしいと思ってくるし、投資家としてと言うか人間として当たり前だが失敗したくないという気持ちが出てくる。正気になってくる。
自分の投資の振り返りをしてもテックロマンすぎたなとか、いろいろな反省はある。その反省をしたなかで、自分もだいぶ正気になってきた感覚があるし、それは一概に悪いことではない気がしている。この文章も書いている途中も自分のバランス感覚をどこにもってくるかを反芻しながら書いている。ただギアをもう一度狂気にもどさないといけないという予感も実感もある。そうでなければこの仕事をしている意味であり役割がない。
そもそもスタートアップであり、ベンチャーキャピタルという存在は社会においてバグであると思っている。いきなり大きな変化を生むことなんていろんな軋轢を生むことは間違いないし、そもそも外れ値なわけだ。そういったものを肯定したい。変化を生むことに狂いたい。
では人を騙したり、法律スレスレのことをすべきかというとそうではないと思っている。そういうのは狂気の中では負の狂気な気がしている。倫理的な境界性については理性で判断したい。このあたりにおいてDefencetechの議論はあるが、それは一旦またどこかで考えたい。
AIは正気を促す可能性が高いかもしれない
そういった狂気を考えていくなかで、日々AIと議論することが増えてきたが、もしかたららAIは正気を促す可能性も高い。基本的にはいままでのデータの積み重ねのなかでAIというのは言語を紡いで会話してくれる(会話しているように見せかけてくる)つまりは、帰納的な推論は得意であり、理性により境界性の内側の議論が進むようになる。それでは狂気は養うことができずらい、、かもしれない。AIは帰納を加速するが、アブダクションの狂気は人間側に残る
ただ前述したように全員が狂気をもつことがいいことなのかと絶対そうではない。そんな社会に住みたくはない。合理的な判断をして理性的な行動をしている人が大半な社会のほうが良いだろう。それでもスタートアップやVCということに関わる人においては、狂気ということは真剣に向き合っていくべき概念だと思う。
狂気の匂いを探そう
最近自分が祭りや意味がわからないと思うものに、なんとなく惹かれて回っていたことなどについてはこの文章を書いているなかで気づいた。自分はそういった”狂気性”を探していたのだと思う。合理的な議論などは耳障りが良いが、つまらないと感じることも多くある。なにか狂気的なものそういったものの匂いに敏感になっていくことが今後ベンチャーキャピタルの仕事をしていく上でも重要になってくるのではないか。
ただ9年やっていておもったのは成功する起業家は狂気だけだと成功しない。そう言った理性を飛んだ発言や妄想をできる人たちはいる。一方でそこで成功に必要なのはその狂気を現実に実装する圧倒的な実行力である。前者をもつひとはそこそこいる。しかしその両者をもつことは稀である。そういった起業家を探す旅をしているのだとこの文章を書きながら思えた。
ふと過ごしていると簡単に正気に戻ってしまう。例えば説明責任であり文章で人に説明をするときであったりだ。投資でいうと投資メモを書いたりしているときは正気に戻る。起業家(狂気)と資本主義(正気)の狭間にいるような金融であり自分たちは狂気性と正気性、どちらももちあわせないといけない。自分たちは狂気を回収して正気に変換する装置でもある。その自覚を持ったうえで、回収しきれない狂気の余白を殺さない弁証法的人間でありたい。
「最大の善きものは狂気を通じてやってくる」(プラトン『パイドロス』)
「決断の瞬間は狂気である」(キルケゴール)
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