メルマガの更新頻度を上げていきたい、今日この頃。書くことによって自分の頭も整理されるので、書くことって結構重要だなと改めて思う。登壇やYouTube/Podcastなどは伝わる度合いでいうと伝わるのだけど、多分喋ってばかりでは考えなくなってしまう。うわっつらのXとかなにか他の海外の情報で見たことを話すだけの人になりたくないという思いが強い。まあ結果、普通のことを話していることも多くあるけど。
という感じのことをこの前、樫田さんと話したことをYouTubeにあげてみた。文章は実はロバスト(頑健)なのではないかという仮説は確かにその通りな気もする。
その文脈においても黒鳥社が出す出版物やイベントなどは結構気になって読んだりすることが多い。時代社という名前も結構黒鳥社という漢字の名前を参考にしたところも多い。少し前にCANTEENの遠山1経由で、黒鳥社の若林恵2さんにも会えて話ができて光栄だった。今回の特集が新しい中世ということで、なんとなく自分が気になっていたことでもあったため、読んでみた。
中世=権威が分散 近代=権威が一元化
今の現代が中世のアナロジーを踏んでいるということは少し前からいろんなところで言われているような気がしている。そもそも中世というのは5-15世紀ほどのヨーロッパの状態を指すことが一般的である。
一つの国が一つの領土を一元的に治める、という近代の形ではなく、神聖ローマ皇帝、各国の王、諸侯や領主、自治都市、そしてローマ教会がそれぞれ権威を持ち、一人の人が複数の主君や教会に同時に従うのも普通の時代だったそうだ。封建制が一般的であり、主従の関係を各地の有力者と結び主君と家臣、領主と農奴のような関係性を結んでいった。
近代から現代においてはその権威がある程度一元化をしていったのではないかと考えている。共同体という意味においては国家が中心となり主権国家という意識がウェストファリア条約以降にまとまっていったのが定説ではある。一つの土地に教皇・皇帝・王・領主の権威が重なっていたところから、主権国家というものが上位概念としてでてきた。
真理ということも、科学と理性というものが真実を語っていることが近代によってより進んでいったのではないか。それが今日のテクノロジーの発展でありテクノロジー信仰を産んでいると思う。またメディアとしても新聞や出版といったものがつくっていき、とにかく権威というものが一元化をしていった時代が近代から現代とも言えるのではないかと思う。
新しい中世とはなにか
しかし今の世界をみていると権威というものは国家や科学だけではなくなっていっていることを日々感じることが多いのではないだろうか。いき過ぎた国家への主権によって戦争というものが生まれた一面もあると思うし、戦後より市場経済というものが強い権威となっていった。その中で出てきたものが巨大プラットフォーム企業である。
テクノ封建制という言葉が近年使われているように、巨大プラットフォームが“領主”化してきている。利用者はデータを差し出す農奴のような立場になってきているということは事実そうであろう。デジタル小作農という言葉も数年前はやっていたのも記憶に新しい。
また最近ではさらにAIカンパニーがどの機能をどの国や誰に渡すかを決められるようになってくる。Anthropic のMythosなどがアメリカ以外では使えなくした事件などもあったり、またイーロンの一存でスターリンクをどこの国が使えるかなども決められるようになってきている。こういったことを考えても権威というものが主権国家からより分散してきていることを感じる。
また情報の流通というもののも、いわゆるマスメディアというものが権威を握っていた時代から現代を考えるとオールドメディアと呼ばれるようになってしまった。a16zのブログ記事を引用するのであればニューメディア3が求められているとあるように、個人の情報発信やインフルエンサーという存在がこの10年-20年で一気に重要になってきたように思える。
結果何が起きたかというと、陰謀論であったり反ワクチンなど含めた様々な言説が生まれてしまった。権威が分散してしまったからである。それぞれ信じたい領主に主従を誓っているかのようにも思えてくる。
真実は権威ある語りの連鎖で安定する(エコー)
中世が西ローマ帝国の崩壊と共に定義されているように、パックスロマーナのアナロジーでアメリカによる世界秩序の監視の崩壊により、パックスアメリカーナとして今回新しい中世という韻を踏んでいるのではないかと、この本でも引用されている、ウンベルト・エーコ(イタリアの記号論学者)が提言している。
単一の権威が真実を完全に支配することはない。中世の世界と現代のメディア環境の間で、最も深遠な構造的類似点の一つは権威の断片化である。
一般的な通説とは異なり、中世は単一で統一された真実の体系によって支配されたわけではない。教会は絶大な影響力を持っていたが、それは他の権威の源である地域の伝統、政治勢力、神秘主義運動、そして競合する神学的解釈と共存していた。その結果、真実は一元化されておらず、重なり合う枠組み全体に分散していた。神学的な問いに対して文脈や地域、知的伝統によって異なる答えが返ってくることもあった。権威は確かに存在したが、決して絶対的なものではなかった。
現代世界、特にデジタルメディアの時代において同様の状況が見られる。ニュース機関、政府学術機関といった伝統的な機関は、もはや真実の生産を独占していない。その代わり権威はプラットフォーム、インフルエンサー、独立系クリエイター、アルゴリズムシステムなどに分散している。これらの各主体が、何が現実として認識されるかを形作る一端を担っている。
この断片化は、機会と不安定性の両方を生み出す。一方で多様な声や解釈を可能にするが、他方では明確な解決メカニズムなしに競合する真実が共存する状況を作り出す。(WORKSIGHT 新しい中世)
ドパガキは新しい中世による産物か
「ドパガキ」という言葉がある。ショート動画をスクロールし続け、次の刺激、次のドーパミンを求めて指が止まらない若い世代を、少しからかって呼ぶネットスラングだ。まあ自分もそれにあたってしまうだろう、ドパオジかもだけども。実はこれも中世化ではないかと個人的にこの本を読みながら考えていた。
中世ヨーロッパで、文字を読める人はごく一部だった。多くの人にとって、情報は「声」で届いた。日曜の説教、広場で歌う吟遊詩人、市場で交わされるうわさ話などである。
その後活版印刷の登場により、人は一人で黙って本を読み、前のページに戻って考え直し、論理を積み上げるようになった。新聞や雑誌を囲んで議論する「公共圏」が生まれ、同じ新聞を読む人たちが「国民」になった。近代とは、ある意味で活字がつくった時代だったのではないか。
しかし今の状況を考えると中世に戻っているのではないかと思うことがある。三宅香帆4さんの働いているとなぜ本が読めなくなるのかが大ヒットしたように、明らかに本が読めなくなっている。活字が読めなくなっているのことは事実としてある。それに変わるものがなにかというと”映像と声”だ。
インフルエンサーのYouTubeやPodcast、ショート動画で自分の好みが永遠に声として流れてくるこの時代は中世に近いのではないかとも思ってしまう。人々がそれぞれの権威のことを信じている現代はこれは近代より中世なのかもしれない。
巡礼というファンダム/推しエコノミー
また現代の中世化として忘れてはならないのはファンダムや推しという現象であろう。権威が分散化していく中で、なにか人々は信じる共同体や意味を見出すようになってくるであろう。それが中世においては宗教であったとおもう、またその宗教もその当時多様ではあったはずだ。
WORKSIGHTで書かれているように、その宗教的行為みたいなものはファンダムや推しエコノミーに現れているように感じる。中世の人々は、一つの教会の下にいながら、それぞれ別の聖人を拝んでいた。町には町の、職人組合には組合の守護聖人がいた。遠くの聖地まで何週間も歩いて巡礼し、聖遺物の前で祈り、教会に寄進した。
いまのファンがしていることは、驚くほどこれに似ている。推しのライブに遠征し、作品の舞台を「聖地巡礼」し、現場でしか手に入らないグッズを持ち帰り、投げ銭を送る。
このようなものは宗教的権威を失った現代の人々が、自分の手で組み立て直した小さな信仰なのかもしれない。
中世の巡礼は、意味が凝縮された場所へ向かう儀式的な旅であった。巡礼者たちは聖霊、聖遺物、聖土へと旅立ち、起源となる聖人、奇跡、神聖な物語への近接を求めた。旅そのものが共同体、アイデンティティ、そして変容を生み出した。到着することは、共有された象徴的領域に参加することを意味した。
現代のファンダムは、クリエイターエコノミーの分散型巡礼として同様に機能する。ファンは意味が集中する場所、フランチャイズ、クリエイター、聖典へと向かって旅をする。物理的にはコンベンション、プレミア上映、テーマパークへ。デジタル的にはフォーラム、ストリーミング配信、アーカイブへと向かう。(WORKSIGHT 新しい中世)
分散した結果の共同体回帰の危うさ
このように新しい中世というのは権威が分散していく時代の韻を踏んでいることがわかる。そうしたときに分散したところで上記で説明したファンダムや、陰謀論など含めて様々な括りで共同体というものが生まれる予感がしている。
ただ、共同体には裏の顔がある。内側をあたたかくするほど、外側に線を引くことだ。中世の共同体は信仰で人を結びつけたが、同時に異端を裁き、ユダヤ人を迫害し、やがて魔女狩りへと向かった。帰属の安心と、よそ者の排斥は、同じコインの表と裏である。
いまのタイムラインでも、毎日のように誰かが「異端」として炎上し、集団で裁かれている。これは特定の陣営だけの話ではない。右でも左でも、推しの界隈でも起きている。
政治の世界でも、「誰が私たちで、誰がよそ者か」が争点になりつつある。日本では2025年の参院選で外国人政策が大きな争点になり、「日本人ファースト」を掲げた参政党が議席を大きく伸ばした。ヨーロッパでも、移民の制限を掲げる政党がドイツやフランス、イギリスで支持を集めている。これを「心の叫び」と見るか「排外主義」と見るかは意見が分かれる。ただ構造として見れば、国家や既存政党という大きな権威への信頼が揺らいだとき、人がより小さく、より濃い「私たち」を求めている、という同じ韻を踏んでいるように思える。
エーコは、中世をなつかしむ気持ちが、伝統の崇拝や異質なものへの恐れと結びつくとファシズムの温床になる、と警告していた(「永遠のファシズム」1995年)。新しい中世を語るときに一番気をつけるべきなのは、たぶんここだ。
だから問うべきは、共同体をなくすことではないと思う。権威が分散した世界で、人が何かに属したいと思うのは自然なことだ。問うべきは、外に開かれたまま人をつなぐ共同体を、どうつくれるかである。
中世化という潮流には、不可避の負の側面がある。帰属は安心を与えるが、同時に異端者への苛烈な排斥を誘発する。情動は人をつなぐが、理性を介さない集団的な断罪を加速させる。
声の熱量が文字の手続きや慎重な論証を凌駕するとき、社会は検証よりも信仰によって、制度よりもカリスマによって動き始める。しかし、デジタルメディアが解き放ったこれらの力を、もはや文字の規律のもとへ引き戻すことはできない。問われているのは中世化を止められるかではなく、その主体となるのが誰かということなのである。
(中略)
だからこそ、私たちは今、創造的な中世化の可能性を見極めなければならない。それは過去への郷愁でもなく、中世が試みた自治の実験を、デジタル環境という新しい条件のもとで再演する企てである。近代的な枠組みに依存するのではなく、自律的なギルド、地域のコモンズ、相互扶助のネットワーク、そして学びとケアを共有する共同体を、自分たち自身の手で編み直すこと。文字による理性的防壁を持ちながら、同時に声や物語を通して世界との実感を伴う生々しい関係を結び直すことである。(WORKSIGHT 新しい中世)
あとがき
今回本を読んで、調べながら自分なりの今が新しい中世かもしれないということについて、考えを書いてみた。(まあ実際は体調があんまり良くなく、祝日の文化の日だったので、時間がとれたときにできることが文章を書くことだったからかもだが。)
時代社としてもこういった雑誌がつくれるようになりたいという思いもあるし、すごく良い問いだとおもう。歴史は繰り返すといったのはヘロドトスだった気がするが、人間が変わらない以上アナロジーとして何度もでてくるであろう。その時に、立ち止まって考えることができるきっかけや問いを時代社を通じて出せれたらいいなと思う。
tohjiなどのhiphop事務所。いわゆる文化をつくるなど言った意味においも視座感が非常に高い起業家で、リスペクトしている。東京ドームライブtohij楽しみ
Wiredの編集長などをやられていた。自分は若林時代wiredのファンでもある。
オールドメディアに比べてニューメディアは本当のことをいうメディアという定義らしい by a16z。なのでpodcastなどは本音がでているような定義をしていた気がする。
友人であり、働きすぎて体調を崩さないか心配だが、もっと活躍してほしいね


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