思想が世界を構築する
時代には思想が必要。その時代をとりまく思想がなにか、もしくは思想を創っていくことはビジネスを行うにも投資をするにも重要だと思う。それが昔は宗教が中心だった時代もあれば、主義が中心だった時代もある。
VCとして働いている中でも世界がどのように向かっていけばいいのか、どの方向性に向かっているのかというのは常に気にしている。各論でいえばなんのデバイス・プラットフォームが伸びているのか・なぜ伸びているのかに始まり、大きな論点でいえば今の世界において何が善なのか・なぜそれが善だと考えられているのかなどは考えなければならないと思う。なぜならマクロに逆らった行為が普及することはないと考えているからだ。
そのような流れはどのようにできるのだろうかと思い考えたのが、ナラティブというキーワードでそれは下記ブログで言語化しているので、もしご興味あれば見ていただきたい。
Web3とマルクスの思想の類似点
そして今の時代を考える思想においてはもう少しこのブログなどで考えていきたいと思っている。取り上げるべきはいまシリコンバレーでも活発に議論が起きているEffective altruismや Effective Acccelationなのかもしれないが、それはまた別のブログで書く予定。今回は前々からWeb3という思想についてカール・マルクスの思想と似ている点があることに注目していたので、その類似点・相違点や見ている未来について言語化・考えてみたいと思う。
自分の理解では加速主義的思考は資本主義を突き詰めていく方向性だと理解しており、マルクスやWeb3のベクトルは資本主義のオルタナティブを探す方向性だと理解しており、そのヒントにはなりそうだと思っている(しかし、マーク・フィッシャーがよく引用するように”資本主義の終わりを想像するよりも、世界の終わりを想像するほうがたやすい”とあるようにないのかもしれない)
ただ言えることは、どちらの方向性においてもナラティブを紡いでいける可能性はあり、機運はどちらもある。その思考のきっかけになればと思っている。
*自分も何冊か本を読んだだけなので、思想や概念についての理解が正確でない可能性が高いです。ご了承ください。
コミュニティと個人の主権を中心におく思想
どちらにも共通する概念としては、既存の力を持っている概念・実体に対してのアンチテーゼであり、コミュニティと個人の主権を元にした力学で社会を捉えている点が点が非常に似ていると思っている。
マルクスにおいては資本主義に対するアンチテーゼであり、Web3においては中央集権(政府orGAFAM)に対するアンチテーゼである。その反発であり、弊害に対して生まれた思想であることは非常に近似している。
そしてその解決方法の案としても、アソシエーションに基づいたコモンの再生を説いたマルクスと、DAOによる個人の主権・コミュニティ主権の運営を提案したWeb3は似ているのではないか(ただし個々においては議論の余地があるが、後述する)
この2つの概念が資本主義登場した初期と、資本主義が成熟してきた今(GAFAMのような独占)に脚光を浴びているのは何かしら今の時代の考え方・思想に対して示唆があるのではないかと思い、このブログを書くに至った。
資本による主権の包摂・疎外
マルクスにおいては基本的には資本主義の起源をその目で見たことが彼の思想に大きく影響している。エンクロージャーによって農民が領地を奪われていき、資本家によってコモンであったものが私有財産化していくことを間近で見てきた。よく引用されるように、例えば庭に落ちている木でさえもコモン・共通財であったはずなのに、資本家によって囲い込まれ、それを利用するにはお金が必要になってきた。そういう時代の最初を生きたのが彼だったと思う。
そうした資本主義はあらゆるものを”商品化”していった。誰もが利用できた、コミュニティで利用できた”コモン”が、資本によって独占され、貨幣を介した交換の対象としての商品となっていた。
それはモノだけでなく、人もである。人自体も商品となっていく。つまり共同体などのしがらみのなかで生きていた(封建制など)ことから、商品として資本市場で消費される存在へとなっていった。
資本主義は、共同体という「富」を解体し、人々を旧来の封建的な主従関係や共同体のしがらみから解放しました。共同体から「自由」になるということは、そこにあった相互扶助、助け合いの関係性からも〝フリー〟になる(100分de名著 マルクス「資本論」)
そうして商品となった労働というものは、どんどん分業化されていき、労働者から構想・主体性というものを奪っていく。これをマルクスは資本の論理によって包摂されていく、疎外されていくと論じた。
資本家が構築した分業システムに組み込まれるだけなので、「構想」する機会を奪われています。工場では、決められた部分作業を毎日繰り返しやらされるため、知識や洞察力が身につかない。つまり、「実行」の面でも、かつての職人のように豊かな経験を積んで、自分の能力を開花させることができない
分業というシステムに組み込まれることで、何かを作る「生産能力」さえも失っていく、とマルクスは 喝破 しています。何年働いても単純な作業しかできない労働者は、分業システムの中でしか働けない(100分de名著 マルクス「資本論」)
そういった人間と人間の関係が物と物の関係のように扱われていき、物象化とマルクスがよぶ現象が今まさに時代を覆っているのではないかと思う。
マルクスは産業のオートメーション化に伴い、機械が単なる労働者の補助具としてではなく、むしろ労働者が機械の補助物になっていくという情況を描き出した。労働者が機械に命を吹き込むのではなく、機械が労働者に命を吹き込むという、主従の逆転。マルクスはこうした労働者が機械の器官の一部に組み込まれるという情況を資本主義下における疎外のプロセスとして批判(加速主義 資本主義の疾走、未来への〈脱出〉)
共同体を取り戻す
このような状況を生む資本主義の台頭を彼は予見し、警笛を促してきた。その対抗策としてアソシエーションによるコモンの再生ということを彼は提案している。アソシエーションとは、共通の目的のために自発的に結びつき、協同する活動のことを指す。
このアソシエーションの中でなるべく商品化を抑えてコモンを再生していく運動を促します。アソシエーションでは、生産手段(土地、工場、機械など)は共同で所有され、コミュニティ全体の利益のために使用されていくようにし、階級はなく、人々は強制や外部からの圧力ではなく、自らの意志と共同の目的のために労働していくことができる。そしてその関与度において利益を共有することができることを提案した。
これは原始社会の互酬性のような社会にあえていうならば戻るような提案でもあるように思える。そうした共同体を主軸として社会づくり、コミュニズムを提唱していったのが彼の思想である。
ざっとマルクスの思想について、簡易ではあるがWeb3の思想と重複を意識しながら説明してきた。またこれらは個人的にはのちにマイケル・サンデルなどが支持する、コミュニタリアニズム(共同体主義)に通じていく概念であると思うし、ミュニシパリズムのような間接的な民主主義にとどまらない地方の小さなグループを主体とした政治運動にも通じる考え方でもあると思うし、今のこの時代に改めて考えさせられるものでもある。
Web3の思想との類似性
ここまで書いてきて、Web3やCryptoについて少しでも知識がある方は近い感想を覚えたはずである。冒頭に記述させていただいたように、類似している点が多くある。
Web3の思想については様々な記事で書かれているが、自分も2年前(2021年)に下記のような記事を書いた。OwnershipとParticipationがWeb3の思想において大事というのが自分の考えである。(もしお時間があればぜひお読みいただければ幸い)
中央集権化(独占)は資本主義が成熟した結果の産物
詳しくは省略するがWeb3の思想においてはやはり、中央集権に対するアンチテーゼが基本の思想にはなっている。そもそものビットコイン自体が、2008年の金融危機に対してのアンチテーゼのサイファーパンクのような概念からでてきたものである。
資本主義である以上利益を追い求める。利益を追い求めるためにはピーター・ティールが言うように独占することが必要だ。そしてそもそもソフトウェア産業は一番便利なサービスに集約しやすい(特にネットワーク効果が効くようなビジネスモデルは)。そのためその結果GAFAMのような独占しているようなソフトウェア産業の巨人たちが現れた。
ユーザーにとっては便利なことも多いが、例えばアメリカの選挙活動におけるケンブリッジアナリティカ事件のように中央集権だからこその問題が起きてきている。”あなたが無料でなにかを利用できる場合あなた自身が商品なのである”とよく聞くように、実はマルクスの言葉を借りるのであれば資本に情報に包摂されているのが現状なのではないか。
またドイツの哲学者であるマルクス・ガブリエルがこのような状況になっているユーザー・消費者のことを、デジタルプロレタリアートと呼ぶように、実は初期プロレタリアートと呼ばれた人たちと今の現代に生きる私達は同じような状況ではないかということが伝わってくる
Token/DAOという力学への着目
こういった中央集権に対する嫌悪感と、Blockchainという技術特性が結びつき発展していったのがWeb3という思想であると理解している。この技術によってインターネット上での所有を表すことができるようになり、その所有を中心に組織ができていくことがDAOという言葉で広がっていっている(まだ普及はしてはいないと思う)
詳しい方には説明は不要だが、NFTも広義では同じ力学で動いているはずである。そのNFTを盛り上げたほうがコミュニティにも個人にも利益があるはずなので主体的にコミュニティができやすい。またそこには利益だけでない熱でありなにかが存在するはずである。
Web3はマルクスの夢を紡ぐのか
このDAOという概念は非常にアソシエーションに近いように思えるし、そもそも中央集権が進んだ要因は前述したように資本主義の発展・拡大による影響が大きい。なのでWeb3という思想は、マルクスの思い描いた社会像を実装するために現れた思想である可能性はある。
人々が主権を取り戻し、疎外されたシステムの中で生きるのではなく主体的に労働し生活することができるような未来というものがこのようなWeb3的な思想の延長にあるのかもしれない。
しかし個人的にはこう議論を発展させながら恐縮だが、本当にそうなのかという疑問も同時に生じている。例えばトークンでありICOと呼ばれていた時代を思い出していただければわかるが、非常に投機的な動きで値が決まっていたり、NFTをみても本来のコミュニティの要素でない金銭的な利益を中心に人々が動いてしまっていることが現実問題起きてしまっている。
Web3とマルクスとの相違点
そもそもマルクスが描くコミュニズムにおいては、商品化というものをコミュニティ内でなるべく出現しないように、富をなるべくみんなでシェアをして、自治管理していくことを理想としている。Tokenは共通財産にもおもえるが、私有財産であることも間違いない。そうした二重の性格をもつものになっている。そのためその価値を上げるための行動というのは、自発的な行動でもあるかもしれないが、マルクスのいう資本に包摂されている状態そのものな可能性もある。
またコミュニズムについては、デヴィットグレバーの負債論から引用すると、”個々の関わりを数値や貨幣で計算するのではない人格的な関係の基盤・即時的な見返りによる均衡的な互酬を期待しない人間の関わり”が基盤的コミュニズムであると記載されている。そのことを考慮するとDAOのような組織においてはTokenの取得などにも設計がされており、互酬を期待しない人間の関わりだけではない力学で動いていることが大半なのではないかと思う。
またCryptoやWeb3の思想においては、リバタリアニズムも大いに影響している。例えば暗号資産の管理のことを考えても、たとえ盗まれたとしてもそれは自己責任の範疇となってくる。徹底した自分の主権を大事にしていく思想が強い。なのであくまでWeb3は”個人>コミュニティ”の優先順位のように感じる。一方マルクスとしては、”コミュニティ>個人”という優先順位であるように思える。そういう意味においてもWeb3が思想を継いでいるわけでは正直ないようにも思えてきている。
このようなことを考えていると必ずしもマルクスの思想をWeb3が継いでいるわけではないようにも思えるが、課題と感じている点は同じでそれをなんとか実装しようとしているようにも思える。理想論におけるコミュニズムというのが難しかった(歴史上は)ことを踏まえてWeb3ではその考えを引き継ぎながらも資本主義の性質も活かしてコミュニティへの回帰をなそうとしているのではないか。
このあたりは、柄谷行人の力と交換様式における、交換様式Dをいま時代が模索していると予言しているあたりのアナロジーを感じる。交換様式Aが古代の互酬とし、交換様式Dをその高次元での回復とあるように、Aを現代にどのようにDとして表現するのかを一つWeb3は実験しているように思える。また元CoinbaseのCTOのBarajiが提案しているNetworkstatesもこの延長にある実験のように思える
今の時代を形作る思想はなにか
このように決してマルクスの思想をWeb3という流れが完全に継いでいるわけではないようには思えるが、一つ時代を表す思想としてその特徴であり流れというものは継いでいるように思える。今後も資本主義的な流れはとどまらないが、それをより推し進めていくようなe/accのような流れもちょうど昨今のOpenAIの問題で活発化してきていたり、a16zがブログを書いたりしたりしており、次の時代を表す思想というものがいくつかナラティブを紡いでいるようなものが登場してきている。
VCで働く端くれとしても、どういう時代をつくっていきたいのか。それに対してどういった思想で望んでいくのかということについては常に考えポジションをとっていきたいと思っている。個人的にはe/accのような流れに非常にシンパシーを感じるが、このようなWeb3やマルクス的な指摘についても共感する部分は多い。
基本的にはVCというのは資本主義を推し進める人格をもっているし、それに準ずるべきだとおもってはいるが、一方社会を悪くしたいとおもって仕事をしているわけではない。なのでなにをナラティブとして紡いでいくべきかというのは自分でも考えながらまたこういった場所で言語化していきたい。
引用
監視資本主義 Netflix
世界はなぜ存在するのか
加速主義 資本主義の疾走、未来への〈脱出〉
100分de名著 マルクス「資本論」
武器としての資本論
ゼロからの資本論
BOYAKI
こういうブログを書いているときにいつも思う。コレ誰が面白いんだろうかと。個人的には面白いのだけれども、別にスタートアップを起業したり経営していく中では別に考えなくてもいいのではって思ったり。
ただ本文にも書いたのだけれども、未来について考えるうえでどういう時代の気分なのかっていうことを考えるのは重要でもあるなとは思っている。そしてその時代にあったプロダクトや投資をしていくことが長期的に普及していく、ヒットするものになるのではないかと。
スタートアップ投資やシード投資をしていて、たまに自分で自問自答する。PMF capitalになってないか?銀行・融資のような想定でDDをしてないか?(銀行が良くないという意味では全くなく、ハイリスク・ハイリターンの役割がVCにはあるという意味です)
やはりシードで投資をするからには未来の角度を変えたい。今の延長の未来を加速させたい。そういったバイアスをもった投資ができるのがシード投資だと思っているし、人間に残っていくのではないかと思う。
もちろんそういう投資をするからこそ、失敗を多くするとはおもうが、誰かが未来に対して思想をもって投資をし、起業家が挑まないと道がひらけないところがあるのではないかと思う。当たり障りのない投資でなく、チャレンジングなでも時代のご機嫌にはそうような投資を心がけたいと思っている。
そうして投資から退場することもあるかもしれないが、それはそんなもんだという覚悟でやるしかないなと思う。そのような後悔がないように、こういったブログなどで書くことによって、自分がどのように時代を捉えているかのセンスを磨きたいと思っている。
面白い未来を創りたいし、見たい。