“AI時代において人間の果たす役割というのは何だろうか?”
この疑問と資本主義の成熟化に伴う様々な課題を考えたときに、”センス”という言葉/概念が自分の中では重要なのではと、腑に落ちてきたところを言語化してみる。
AIの時代
AIの時代・シンギュラリティという言葉を聞いたのは10年前だが、この数年で機械学習というAIの活躍から、生成というところまで技術の発展が著しい。この技術的な進歩と社会に普及していくスピードにズレはあることは間違いないが、遅かれ早かれAIとの共生をしていくこととはどういうことかについて考えなければならなくはなる。
AIの時代においていはこれも擦られた言葉だが、データが石油である。そういったデータを元に、その過去データの範囲の中で目的を与えたときに最善解を見つけ出すという行為は人間が勝てることはなかなか難しくなってくるはずだ。
機械学習におけるレコメンドシステムみたいなものは多くのECサイトなどでも使われているし、NetflixのレコメンドやTikTok.YouTubeのレコメンドでずっと見てしまうっていう経験は多くあるであろう。
つまり、過去のものを分析して何かを生み出すという行為自体はAIのほうが得意である。(当たり前だけど)なぜなら覚えていられる量が段違いだからだ。それはChatGPTなどと会話することにおいて実感しているはず。
正論はAIが言えば良い
正論とはなにか?という問いも深淵(何が正しいのかは相対的であり絶対的なものはない)が、過去の事例からのアナロジー的解決や、車輪の再発明的なものを避けて答えにたどりつくことや、その結果の概念の塊でありコモンセンス的なものを正論と仮固定した場合、それはAIが今後言えば良いものになってくるのではないかと思う。
例えば、自分の仕事であるVCとして働いているときにまだプロダクトができてない時期には無駄に人を増やしてはいけないということや、LTV>CACは3倍以上が好ましいや、ChurnrateはX%以下があなたの事業にとって、良い数字であるみたいなことなどを正論と指した場合、AIのほうが正しく指摘してくれるようになる未来はそう遠く無いはず。
その意味においてのVCの役割は少しつづ消えていくかもしれない(他の役割はあるので、無用ではないと信じたいが)実際に海外のVCでは、ChatGPTのプラグインで、VCが話すことみたいなものを実際に創ったりしたニュースを見たことある。VCに相談する代わりに、そのChatGPTに相談すればいいみたいなのは近しい未来にありそうではある。
AI-based/AI-naitiveな環境づくりみたいなのが上記の世界に行くためには必要(具体的にはデータの収集など)だが、そういったFinancial なデータや現状の状況などをデータで入力すると、AIがその事業状態にあったことに対して正論は返してくれるであろう。
これは単に自分が働いているVC業界・スタートアップ業界だけの問題ではなく、それは例えば法律であったり、医師であったり、コンサルタントであったり、なにか過去の情報を元に正論を考えたりする仕事においては全てに影響があることではある。(この意味においては影響がない仕事はないと思う。)
ロジカルシンキングはAI、スペキュラティブは人間
つまりロジカルシンキングのスタイルで何かを考えるという行為はAIに任せたほうが良いのかもしれい時代は近くなってきている。そうなってきたときに人間が思考すべきスタイルとはどういうものがあるのか。その1つの思考スタイルとしては、スペキュラティブな考え方はあるとは思う。ここにおいては過去記事を参照いただきたい。
こうあったらいいなという未来に対して妄想できるような考え方は、AIにもインプットを与えればできる可能性はあるが、そこにおいては人間における比較優位があるように思える。
そのこうあったら良いなということの感性が”センス”であるのではないか。センスという言葉は、ブランドやPMFみたいな抽象的な言葉なので定義や利用が正直難しい言葉だとはおもうが、今自分の中でしっくりきているのはこの言葉である。そのセンスこそが今後人間に残されていく/大事にしていくべきものではないかということについてもう少し深堀っていきたい。
データの功罪と資本主義の業
センスについて深ぼる前に、それがこれからのAI時代により求められてきているのではないかと思う背景に関して考えてみた。ここにはデータの功罪と、資本主義の業が絡み合っているように思える。
ビッグデータというともう死語な気もするが、今自分たちはデータの時代に生きている。それはソフトウェアやIOT含めてデータを取りやすくなっていくことがより後押ししている。
そうしたデータがあると何が良いのかというと、資本主義に課せられた経済/利益成長に対して過去のデータを元に予想をすることができるようになることだ。スタートアップへの投資をしていてもユニットエコノミクスであったり、また企業を経営していもROICであったり経済的リターンの再現性について資本主義は好む、というか義務付けられている。そういった意味においてはデータは欠かせないものであるのだ。
一方でこのデータ活用というのは手段の目的化であり、大局観的に間違った方向(センスを歪める可能性)があるとも思っている。なにより一言でいうと世界をつまらなくする可能性がある。(もちろんデータによる判断は非常に大事)
データが取りやすくなった結果、再現性がわかるものに多くお金が流れてしまうことが起きすぎていることや、データを活用して目的を達成するはずが、手段の目的化が行われていっていることが、ある側面においては今の世の中で起きていることのように感じる。
再現性は独占をうみ、オルタナティヴを潰す
これも擦られすぎた表現だが、今のインターネットを表面的に見てみると、GAFAMの独占にはなってきている。資本主義は独占を促す、金利がある限り侵略体質であることは間違いない。つまりデータを元にした未来においては、皆が同じようなサービスやものを使っている未来である可能性が高い。そしてAIに任せればそれはより加速するであろう。
・資本主義化においては、際限なく事業を拡大させ銀行の金利は払い侵略的体質を身に着けざるを得ない。人々が貯蓄に励むようになれば経済社会は貧血状態か高血圧かの二者択一になる。貯蓄したお金は規模拡大の設備投資に向けられつづけてしまう
・資本主義は際限なく拡大を続けて死ぬまで走り続けなければならないという、異常な性質を根本に抱えたシステム
(現代経済学の直感的方法)
これが悪いことなのか?良い面も多いだろう、人々はスケールメリットを享受しより安く商品やサービスが使えるかもしれない、教育の面なども良い効果はあるかもしれない。一方これはオルタナティヴの可能性を潰す可能性があるのは深刻な弊害であるとは感じる(一方チャンスでもあるかもだが)
例えばテレビなどを見ても感じることはあるのではないか?何年同じ番組を同じタレントでやっているのだろうか。またスター・ウォーズはいつまでやるのか?有名ハリウッド映画のシーズンはいつまでつづくのか?そういったことを思ったことはないだろうか。
また例えばファスト風土化という言葉で語られることは多いが、地方の風景がほとんど同じになってきているのをみて、安心もするかもしれないが面白みはあるのだろうか。ドゥルーズ・ガタリにおける、脱領土化というものは加速主義の記事でも触れたが、その地域や独自性といったコードがなくなっていっている。
グローバライゼーション・資本主義が進んだ先にあるのは広告的な空間であり、場所のアイデンティティは失われてしまい、歴史の入り込むの余地のないスペクタクル(見世物的)な場所になってしまっている (いまなぜ空間は退屈か)
このように再現性を求めていくにあたって、データを利用した最適解を求めようとするならば独占や再現性あるものに対する再投資というものが答えとしては正しくなってくる。
今回の本題だがそれこそ、正論はAIに任せるように、その経済的な正論のちからに頼っていくとするならば、こうした現象というのはどこもかしこでも起こってくる。それに抗える価値基準はセンスにあるのではないかと感じる。
数字(データ)の手段の目的化
もう一つこのデータによって推し進められた中での弊害としてあるのは、手段の目的化と呼ぶべきか難しいが、過度なデータ主義によるインセンティブの歪みは存在する。
一番わかりやすいのはX(Twitter)の例だろう。TwitterにAltenativeはあるのかという記事を昔かいたように、アテンション・エコノミーにまみれたX/Twitterはなかんかにひどい。本当は目的が異なったとしても、数字で魅せられるとその数字に媚びてしまう。(自分もブログなどを書いているときにタイトルなどでこびてしまったなと思うときはある)
データを活用して数字を伸ばそうと思えば、例えば人の悪口をかいて炎上したり、自分の意権でなく誰かの意見の解釈・翻訳・上乗せばかりであったりと、アテンションを手っ取り早くとれるほうが優先されるし、構造的にその行動をとったほうがコストパフォーマンスが良い構造になっている。そこにさらにXでは金銭的な欲求までつけてしまっているから、地獄化している。
しかし、それでも上記の記事内で回たようにオルタナティヴはなく出口が見当たらない。もちろん自分もそのような弊害があることは理解しつつ上記のことに加担してしまっているときもあるし、逃れられない。この日本における政治不信のような状態(文句をいっても仕方はない)のようなものが、続いている。EXIITが見えない。そしてインセンティブがアテンションによってしまっているがための構造的な課題はつきまとう。
コスパ・タイパという意識
またもう一つはデータ化によって、費用対効果的な数字で見えるような考え方(ネオリベ的?)が日常に浸透していっていることにおいても重要な視点だと思う。
例えばそれは、上記でも利用したが、コスパ・タイパという言葉にあらわれているだろう。
このような概念が悪いことなのだろうか?日常的にも自分もよく使う言葉ではある。(特にコスパは)コスパやタイパを気にしだすと大体なものはデータで図れるものであり、数字証明されたものしか行動ができなくなってくる。そうした意識というものは、いままで説明してきたような弊害な行動を助長させるし、個人的には人間とはなにか?みたいな問いに近づいてくる気がしている。
生きる意味のコスパにおいてはじゃあ3食同じもので、意思決定をなくしていき、すべてコントロールされたほうがコスパ通いのではないか、旅行に行くときも寝ることが目的であれば、安いほうがよいのではないか。例えばユニクロっていうコスト的にも質的にも素晴らしいものがあるのに、なぜそれ以外のものを購入するのかということに行き着いていくのではないかと思う。(ユニクロ好きですよ、買ってます。)
AIにない感覚の兆し
ただ人々はそうしない、自分の意思決定で当たり前だがユニクロ以外の服も買うし、いろんなレストランに行くし、自分で料理を創ったり、この文章のようにすごく読まれるわけでもないような文章を書いたりする。ここのにおいて逆に自分は、人間らしさでありセンスと言う言葉が、本題である正論であるAIに対して対抗できうる概念ではないかと考えている
センスとは何か
センスとは選ぶこと、判断すること(センス入門)
冒頭説明したが、“AI時代において人間の果たす役割というのは何だろうか?”という答えの可能性として、センスという概念を紹介してきた。ただこの”センス”という言葉の取扱いは難しい。下手すると思考放棄の言葉になってしまう可能性があるし、そういった意味合いも言葉にはあるのかもしれない。このプロダクトはセンスがいい、あの人はセンスがいい、この服はセンスが良い。センスという言葉は便利だ。
しかし”正論=センスがよい”わけではないようには思える。センスという言葉にはもうすこし、オルタナティヴ性や、アンチテーゼ的な意味合いが込められているように個人的には感じる。もちろんAIがセンスがないという前提は扱いが難しいが、自分が考えるセンスという意味においては、最適解や正論ではない。
そういった事例のないものだが、納得できるものというものがセンスのヒントになりそうであると考えている。その意味において、自己表現と意思決定の二軸においてセンスという言葉に迫ってみたいと思う。
1.センスは価値観/思想を言葉以外で表すもの?
なにが良いか悪いかということさえ非常に難しい判断基準だが、ここは資本主義の力で共通認識が良くも悪くもできつつある、お金という尺度に合わせて良い悪いは選びやすい。(それでも難しいかつ、それでいいのかという議論はある)
しかし、何が好きか嫌いかという価値基準や思想に関してはより共通認識はつくりずらいものである。自分はそれを磨いていくことが人生だとは思っているが、この好き嫌いを示す行為がセンスであるという定義は一つ有り得るのかもしれないと思えている。
特に言語上で表しきれないもので、好き嫌いを示すものとしてはファッションなどがわかりやすいであろう。思考実験としてAIにファッションを選ばせると過去データから、そのとき売れたものが一番良いと仮定したり、もしくは生地などに使ったお金(コスト)と価格の差が小さいものであったり、なにかしらデータを元に選ばれるであろう。
しかし自分たちは意思決定をするときに、もちろんその要素も考慮にいれるがそれだけでは決めない。なにか定量的に落とすことができない、意思決定をしているはずでそこにセンスというものがあるのではないか。
そういった意味においてセンスは意味をつくりだすと思う。単純に良い悪いで判断できない好き嫌いの中においては解釈を自分のなかでつくった結果なのではないか。そういったファッションであったり、スタイルであったり全てが解釈に結び付けられる。意味をもたらす活動全般にはセンスが関わってきそうな感はある。
事実というものは存在しない。存在するのは解釈だけである。(ニーチェ)
2.センスとは意思決定における中道左派?
もう1軸として意思決定におけるセンスというのも解釈の余地があると思う。そこにおいて自分は”目的達成の手段のための意思決定におけるバランス感覚の良さであり、中道左派であるのではないか”と考えた。もしかするとこれを別言語でいうと第一原理から考えるという話でもあるのかもしれない。
いままで書いてきたように、データに基づく過去の成功事例や意思決定の反復においてはAIに勝てない、そういった意味の正論は人間の役割として減ってくる。この方向性を意思決定における保守主義と定義するとしたら、人間の役割としてはそのオルタナティヴについて考えること、革新的・左派的な思考にあるのではないかと考えた。しかし明らかに左派的だと受け入れられない。
そのため、中道左派あたりのバランス感覚をもった意思決定というのは、センスが良いという状態でこの意思決定に関してはAIではない人間らしい意思決定さなのではないかと思う。
これを考えたのは自分がセンスがあるなと感じる意思決定や、人について調べていたときに思えたことだ。新しすぎて受け入れられないというわけでもなく、保守的で目新しさがないというわけでもないというようなことをしている状態はセンスがあるなと自分の中で腑に落ちた(しかし書きながら思えたので、これも自分のセンスという意味なので好き嫌いに内包されるかも・・・)
AIが構想するKPOPアーティストと、ミン・ヒジンが構想するKPOPアーティスト
Newjeansのプロデューサーであるミン・ヒジンのインタビューをいくつか読んでいたときに、この考え方はなかなか正論に基づくAIではできないなと思ったことがある。
単純に過去のヒットの延長においてKPOPアイドルをつくることをAIに依頼しても、例えば過去のヒットの要素であるラップスタイルなどを取り除くとか、そういった考え方はできない気がする(プロンプト/入力次第だとできるかもだが)
このあたりに意思決定としてのセンスの良さというものを自分は感じてしまう。
私が重視する要素はいくつかあります。 個人的には、K-POPの一般的なメロディ進行やボーカルスタイルの扱い方はあまり好きではありません。高音パートを入れる必要性、ぎこちなく突然ラップする部分、全員が同じように聞こえるなど。もちろん、このスタイルを楽しむ人たちを尊敬はする。しかし、私はこのような要素が好きではないし、そのような要素のない音楽が存在できる世界を望んでいた。(中略)
結論から言うと、私はK-POPの伝承観に反対する人間です(笑)。NewJeansは伝承というK-POPの要素が欠けているチームです。しかし、私たちがかなり一貫して発信してきたメッセージは、ある種の物語であるとも言える
・ミン氏の説明によると、以前の定型化されたアイドルは“正”、親しみやすくとても淡白なイメージのアイドルが“反”、ここから“合”である少女時代が生まれた。「少女時代が歌う音楽自体がとてもフレッシュなイメージなので、これを極大化するには『足す』のではなく『引く』、これで行こうと思ったんです」
アイロニスト的態度
しかし単純に逆なことをすればいいというわけではなく、バランス感覚がセンスには重要になってくる。何かの方向性・思想にどっぷり浸かりながらも、そのことさえ疑ってかかる姿勢のようなものがセンスにおいては大事なように思えている。過去やデータを重要視しながら、過去を捨てるような姿勢みたいなことが重要なのではないか。
それを哲学者ローティはアイロニストであることの重要性を説いていたが、これはセンスの話にも通じるものではあるのではないか。
アイロニーをもって物事を見ることは、重複だがデータを見ながらデータを信じきらないという姿勢に通じる。この姿勢はAIにはなかなか取りづらい姿勢であるように感じる。このアイロニスト的態度こそが、センスの良い意思決定に繋がる何かはあるのではないかと思う。
アイロニストは「たえず疑問に思っている」。アイロニーの対極にあるのは 常識 である。私たちの社会生活に結びつく常識と、私的な生活に結びつくアイロニーという構図です。(中略)
アイロニストの定義はさきほど見たように自分にとって最も重要な信念や欲求が、偶然の産物だということを認められる人物です。
(偶然性・アイロニー・連帯)
投資におけるセンス
あまりにも自分の日々やっている本業からは大分離れてしまったが、VCとして投資のときにもセンスを大事にしている。最後信じられるのは自分のセンスだ。そのセンスが時代と合わなければずっと調整しつづけるような、バランス感覚を投資をする上でも気をつけている。
JAFCOの渋澤さんのインタビューを読んだり、他の海外の投資家のインタビューの中でもよく言う意見が割れる案件や、Non-Consensus Investingみたいなところに大ホームラン(三振・大ファール)もあるかもしれないというものにたどり着くためにはセンスを重要視・信じないといけないのではないかと思っている。
そうでなくデータが分かっているもの中にはAIに投資はおそらく負けるであろう。いまの事業状態のデータをポチポチいれたら投資判断ができるというAIに人間がまだ存在意義を見出すのであれば、人の面と事業の捉え方におけるセンスではないかと自分は思っている。
言い換えれば、アートも同じでしょうが、皆が良いと思うものはだいたい良いのですが、皆が悪いということもだいたい悪い。しかし、「意見が割れるところ」には、いわゆるビッグサクセスなり、突破口というものが存在している。(「伝説のベンチャー投資家」になれた理由、教えてください、渋澤さん【by - OWNER -】)
センスの磨き方/自覚方法はあるのか
最後に少しだけ、そのセンスというものはどういうふうに磨くことができるのか・自覚できるのかについても少し考えてみたい・・が、自分も正直いろいろ試しているのが現状だし、自分も磨いている途中だ(まあ完成することはないのだろうが)
意識をしているのは、自分の好き嫌いについて自覚的になることは意識している。何が良いか悪いかより、何が好き嫌いかにおいてポジションをとることは意識的にやっている。倫理観・美学をメタに認識するみたいな感覚。
その延長の中にではあるが、”ブランド”というものに対して向き合ったりをしていた。どうして同じ服やモノなのにこんな価格がつくのだろうか?これはアートの購入にも近しい感覚はあるのかもしれない。良い悪いではない、好き嫌いを元に価値判断を迫られる経験というのは、そういうところにあるのではと今は思っている。(来年にはどうおもっているかわからない)
もう一つは、第一原理から考えるという考え方はこの自分が仮定義した意思決定におけるセンスを磨く上では重要になってくる気がしているが、それはそれでまた考えていることがあるので、別途どこかで記事化したいと思う。
“AI時代において人間の果たす役割というのは何だろうか?”
“AI時代において人間の果たす役割というのは何だろうか?”という問いのもと、その一つのヒントになりえるのはセンスという概念ではないかと思い書き進めてきた。自分なりの言語化はできたような気もするし、まだまだ抽象的なような気もする。
ただこれからの時代にこのセンスの扱い方はより考えていかなければならない時代になりうるのではないかと思う。それは使い方を間違えると、ポピュリズム的なものにもなりえるものである可能性もあるし、間違った方向性に導く可能性があるものではあるが、データによる正論がAIに委ねられていく中で人間として何を大事にしていくかはじっくり考えたい。
そのひとつの人間の果たす役割の一つとして自分の思想を書き記すことはあるのではないかと思い、このように毎回記事は書いている。果たしてこれに意味があるかはまだわかってないが、センスを自分で磨くために書いているのかもしれないとこの記事を書きながら同時に思えた。
ぜひこの記事が、AIの時代に生きていくための問いとして良いヒントになれば幸いである。
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引用
書籍:センス入門、ニーチェ入門、現代経済学の直感的方法
Web記事:ロード風景の写真引用ポスト、ミン・ヒジンインタビュー、「伝説のベンチャー投資家」になれた理由、教えてください、渋澤さん、
あとがき
このセンスというワードと、AI時代やデータの罠みたいなのはなんとなくテーマ感としてもっていたし、友人だとこういう話をしたことがある人は何名かいると思う。
なぜこのタイミングで書こうかとおもったかについてはいくつかあるが、一つ大きなきっかけは、現代思想入門や、勉強の哲学などを書いている哲学者の千葉 雅也さんがセンスの哲学という本を出版するのを見たからだ。まだ書いている2024312時点では発売されていないが、自分も購入予定だし楽しみにしている。
一方その本を読んでしまっては、自分なりに考えていたことが影響を受けてしまって、今のピュアに考えているセンスの正体について言語化できる機会を失ってしまうかもしれないとおもい書き出した。
こういう外圧がないとなかなか文章化して、残そうとおもわないからどの書きたい記事をどのタイミングでだすかというのは非常に難しい話だなと感じた。
今後も何個か書きたいテーマが尽きるまではこの文章は書き続けたいなとおもいつつ、どういう順番で書くかは未だに迷っている、、