テーマ不在感
この数年言われてきているが、投資テーマ・起業テーマということが減ってきているとされている。もちろんCryptoやAIのような技術革新は進んでいたりするし、例えば普段使うサービスという点においてもライブ配信や、ショート動画など日々接するものの変化はあるので、変化がないわけではないしテーマがないわけではない。
ただ目に見えてて大きなテーマというのは少し減ってきているように感じる。以前Speculative thinkingというテーマで記事をかいたように、課題解決がスタートアップや起業の基本とされてきたが、そういう時代でもないのではないかというのは記事で書いた。
需要創出は一つ大きなテーマではあるだろうなとおもうので、それはまたどこかでより言語化したいとはおもっているが、今回その課題についてもVCが取り扱う課題についての拡張があったのではないかと思っていてそれについて書いてみたい
VCが関与しうるIssueはどこまでか
Bigissueの時代というのは今までなんども書いてきた記事だが、なぜそうなったのかということを考えている。Small issueとBig issueがあるときに
①VCが扱いうるお金の増加とともにBig issueへの対応が可能になりつつある
②テクノロジーなどの普及、情報・流通含めた民主化に伴うSmall issue解決のための資本の量が低下している
という2種類の変化がこの10年間のなかで起きてきているのではないかということを考えている。もう少し具体的に見ていきたい。
VCが扱えるお金の増加と解き得るIssueの拡大
VCの扱うお金というのは特にUSにおいても増加傾向であった(この数年は違う可能性は高いが)ファンドサイズも巨大化していき、投資することができるお金の絶対額の総量が増えていった。例えば10億円の投資で解決できうる課題と、500億円の投資で解決できうる課題というのは異なる。
そういった意味において、10年前と今ではVCバックグラウンドで挑戦できる課題というのは拡張しているはずである。
この延長において、DefencetechやClimatechのようなテーマやもう市民権はある程度得ているがDeeptech領域などにおいての投資が広がっているのではないかと考えている。
巨大PFなどの恩恵
InstagramやShopifyなどのようなインターネットサービスのPFが多くでてきたことによって、これまで中間者に多くコストを払わなければならなかった。それが多くのIT巨人たちのおかげでそこまでの投下資本が必要なくなっていた。D2Cといったようなテーマ感はこのあたりの延長にはあったはずである。
また例えばB2B分野の領域においても、ノーコードなどのようなサービス含めてSmallなIssueにおいては開発コストなど含めてそこまで大きなコストを払わずとも解決することができるようなものが普及しだしている。そういったものを活用しブートストラップ的な起業も増えているのがこの数年より拡大してきているように思える。
VCの調達スコープの変化
それを踏まえて、Issue度と、解決に必要な調達スコープが変化というか拡大しつつあるように思えたのでそれを上記の図でなんとなく整理をしてみた。
10年前ほどまでのソフトウェアの開発がスタートアップ的であったときには、Issueというのものそこまで国家規模などのIssueと比較すると小さいものしか解けなかったのではないか。そのため、VCにおいての投資スコープというのも真ん中ほどにあったようなきがしいてる。
それが上記で説明してきた現象が増えたため、VC scopeがより右上へのベクトルに変化した可能性がある。そのため課題解決におけるIssue度が大きいものがより投資テーマとしても増えてきている印象があり、Small issueにおいてはVCに頼る必要性がないような起業も今後増えていくことも同時に間違いないのではないか。
Value proposition と Value creation
今回は課題ありきにおいてVCやスタートアップが関与できるIssue度が広がりをこの10年ほどで見せているのではないかということを考えそれを言語化、図式化してみた。課題においてValue propositonをしていく上ではどのIssueに取り組むかを考えるきっかけになれればいいなと思う。
一方で、冒頭でも記載したがSpeculativeな、Value creation的なものも同時にお金が流れている気配もある。わかりやすいのはエンターテイメントの分野であったりもする。どちらも個人的には興味がある分野であり、そういったIssueっぽい起業の考え方もSpeculativeっぽいValue creationっぽい起業の考え方どちらも必要な思考方法なのではないか。
自分もより面白い課題、面白い問いを作り出せるようなスタートアップに出会えることを期待しているし、そういった人たちに考えるきっかけなどが与えられるようにやっていきたい。
マウンテンバイク(MTB)やってみた/趣味見つけの旅
新しい趣味を見つけるたびに出た記事をさくっと書いてみた。自然と触れる体験みたいなのとWellbeingって多分繋がっている気がする。山登りなどをしているときに思うけど、ホモ・サピエンスは猿と同じ部分というか、きちんと整備されてない道を歩くときにでる何かっていうのは大事なような気がしている。
ここは気をつけていかないと足をくじくだろうなとか、ここは木ががあるから避けようとかそういった意識というのは、普段都会という整備された場所に暮らしていると忘れてしまう。そういった感覚を忘れてしまうのはもったいない。
エクストリームスポーツやこのMTBとかは死とか危険性があるからこその享楽的な面白さというか、そういったものが日常から遠ざかっているからこそ自らそういった機会を現代の人は求めるのかもしれない。とか思いながらMTBを楽しんだという記事です。(こちらから読めます)
Books :うたげと孤心
日本の優れた文学のカルチャーにはうたげと孤心のどちらも必要だったのではないかというのを過去の和歌などの創出方法や歴史を中心に解説してくれている。
これは普段の事業活動にも通じるものはある気がする、すべての物事は宴ばかりでもだめだし、孤心だけでも何事もうまくいかない。そのどちらもが緊張関係にあることによって見てくるものがあるのではないか。
例えばオフィスなどにおいてもそうだと思う。リモートワークはどちらかというと孤心のバランスが高くなるが、それだけでは良い事業がつくりづらい。リモートでも”うたげ”のカルチャー、合す文化を上手くつくれないといけない。コロナ以降このうたげ文化は少し減ったような気もしている(自分だけかもしれないが)
もしくはVtuber/YouTuberやHiphopアーティストのようなコラボ文化みたいなのものこの合す文化の中ででてくるものはあるのに近い気はしている。ただコラボするためには自分のカルチャー/個性というものを自覚的に意識しないといけないようになるみたいなのはわかりやすい気がする。
こうした東洋的な感覚における事業の作り方や、制作活動というのはいまの日本においてもヒントになるものは多いのではないか。そういったものを古典ではあるが、過去の日本のクリエイティブに目をむけることによって気づくことも多々あるのではないかということを意識することができた本であった。
現実には、「合す」ための場のまっただ中で、いやおうなしに「孤心」に還らざるを得ないことを痛切に自覚し、それを徹して行なった人間だけが、瞠目すべき作品をつくった。しかも、不思議なことに、「孤心」だけにとじこもってゆくと、作品はやはり色褪せた。「合す」意志と「孤心に還る」意志との間に、戦闘的な緊張、そして牽引力が働いているかぎりにおいて、作品は稀有の輝きを発した。
日本的美意識が「合わす」原理として捉えられ、「合わす」ための場すなわち「うたげ」のまっただ中で、「いやおうなしに「孤心」に還らざるを得ないことを痛切に自覚し、それを徹して行なった人間だけが、瞠目すべき作品をつくった」として、「うたげと孤心」の主題と結びつけられている。