地方で気づいた“コストの安さ”の恩恵
正月休みに、地元である香川の実家へ帰省する機会があった。昔からの友人の家をめぐりながら、あれこれと近況を語り合っているうちにふと感じたのは、「土地や物件のコストがこんなにも安い場所では、いろいろな挑戦ができるのではないか」ということだ。
実際、先輩の一人は古民家を活用した民泊を経営している。築何十年も経った建物を格安で借り、それをゆっくり自分好みに改装したらしい。都内であれば家賃や改装費だけでも相当な額になるが、ここ香川では驚くほど低コストで始められたという。
また東京から戻ってきて農家をやっている友達も同様に土地が余っていることに対してより拡大意欲を見せていた。周りの土地ももう使っていないところが多いので格安にて貸してくれているみたいだ。
こうした話を聞くにつれ、「コストの安さ」というものがビジネスの多様性を生む根源的な要素だと改めて感じた。リスクを小さく抑えられるからこそ、まずはやってみる精神が生まれるし、チャレンジを一度や二度失敗しても立ち直りやすい。首都圏では物価や人件費が高いゆえに、どうしても最初に大きな予算を組まないと動けないし、投資回収のプレッシャーから事業内容が保守的になりがちな面があるように思う。
そういったものが行き着く先は再現性を求める結果のチェーン店ばかりが並ぶ商店街のようなものになってしまう。自分が昔住んでいた吉祥寺なんかはそういった気配を感じる。多様性というよりは資本主義が生むフラットな世界みたいなものになってしまう。それは便利だが面白くはない、多様ではないからだ。
そう考えたとき、過去にインターネットが世に普及し始めた頃の「ハードルの低さ」や「創造性の解放」を思い出した。インターネットもかつては、わずかなサーバー代と小さなチームさえいれば、世界に挑戦することが可能なプラットフォームとして多くの起業家を魅了していたのだ。
ところが現在、インターネットはある種の“都市化”を経て、集客コストが跳ね上がり、個人や小規模チームには厳しい環境になりつつある。それならば、これからの時代は“地方”というリアルな場が、新たな多様性の源泉になるのではないか と思った。
インターネットの“都市化”とコスト安が育む多様性
かつてのインターネットがもたらした“コスト安”の衝撃
インターネット黎明期、まだサーバーを自前で用意しなければならない時代からクラウドの到来へ移行する中で、初期費用は劇的に下がっていった。自宅の一角やガレージをオフィス代わりにしてサービスをローンチし、そこから一気に世界へ展開するスタートアップの物語は、数多く語られてきたと思う。とにかく「最初に必要なコストが低い」ことがインターネットの魅力の一つだったのだ。
インスタグラム(Instagram)がわずか数名で運営されM&Aまでいったことや、FacebookやGoogleもガレージスタートアップの伝説を語られるように、少人数かつ少資本でも一気に成長できるチャンスが広がっていた。そこから生まれる雰囲気は、多元主義を実現する土台となり得た。なぜなら、リスクが小さいからこそ、さまざまなバックグラウンドや志向を持つ人々が遠慮なくアイデアを試すことができるからだと考える。
当時、「これは儲かりそうだからやってみる」という動機だけでなく、「単純に面白いアイデアだから試してみよう」「この技術を使って世の中を変えてみたい」といった多様な目的意識がスタートアップコミュニティに存在していたのではないかと思う。多分。。コストが低いプラットフォームは、“多元的な挑戦”を促すという点で非常に意義深かったのではないかと思う。
インターネットの“都市化”と集客コストの高騰
ところが、ここ数年でインターネット環境は大きく様変わりしていると思う。SNSや検索エンジンが巨大化し、人々の目線が特定のプラットフォームに集中することで、広告費や集客コストが膨れ上がってしまった。言い換えれば、インターネット空間が“東京化”あるいは“ニューヨーク化”し、家賃(=広告費やマーケティング費用)なしに人目を引くのが非常に難しくなっている。
TikTokやInstagram、X(旧Twitter)、さらにはnoteといったサービスを見ても、結局は同じような仕組みやフォーマットの中でユーザーの注意を奪い合う戦いになり、経済原理が強く働くように思う。そこで目立とうとするなら、結局は広告を打つしかないという状況に陥っていく。インターネットサービスは1位が総取りすることが多い。そのためにコストを払い続けなければならない。こうした構造は、リアルの一等地に出店する感覚に近いと考える。どんなに個性的な店を開こうが、一番目立つエリアを抑えるには高い“テナント料”を払わなければならないというわけだ。
結果として、当初の魅力であった「少人数で世界を狙える」「ユニークなアイデアをすぐ形にできる」という動機は薄まり、資本力のあるプレイヤーが広告を大量に投下してユーザーを囲い込む現実が生まれていると感じる。もちろん、小さなサービスが全く出てこないわけではないが、かつてほどの“新天地感”や“開拓者精神”は見えにくくなっているのではないかと思う。
インターネットの世界をみるとどこも同じような景色になってきているのではないだろうか、、同じようなサービスが世界中で広がり便利だが少しつまらなさもあるみたいな都会になってきている感覚がする。
そしてそのような反発からWeb3.0のような概念が推し進められていたし、分散という概念はでてきてはいるが、結果2025年の現在はそちらのベクトルに言っているわけではないように思える。ただしAIがそのようなインターネット世界観に方向転換を図ることができるようになる可能性はあるが、またそれはどこかで別途文章化したいので今回は棚上げ。
多様な社会を育むには「低コスト」は重要
では、なぜ低コストが多様な挑戦を支えるのだろうか。それはやはり**「失敗してもダメージを最小限に抑えられる」からだと考える**。一度の失敗が取り返しのつかない大打撃になるような環境では、人々は慎重になりすぎてしまう。だがコストが安ければ、ある程度の試行錯誤や遊び心を発揮しやすい。
地方にはまだまだ安い土地や空き家が転がっている。大都市ほど密集していないからこそ、余白や遊休資産がたくさん存在する。起業家やクリエイターにとっては、そうした“余裕”こそが自由な発想を生み出す源泉になるのではないかと感じる。
これはビジネスに限った話ではない。地域コミュニティのイベントや芸術活動などでも、場所の確保が安価であれば企画段階で諦める必要がなくなる。小さなカフェの一角で作品を展示してみるとか、自宅の物置スペースを改装してアトリエにするとか、コストが安いとそうした“思いつき”が現実化しやすい。文化の多様性は、こうした余白や試行錯誤の延長線上で育まれると思う。
一方で、デジタル空間ではネット広告の“テナント料”が高騰することで、似たようなモデルのサービスばかりが上位表示されるようになり、ユーザーの可処分時間を奪い合う熾烈な戦いにシフトしていると感じる。それは、かつてのインターネットが持っていた“自宅のPC一台で世界と戦える”という魅力を損ねるものだと思う。一方ここはAIというテクノロジーがもしかしたら変える可能性はあるが。。
Sam Altmanが示唆する「コスト削減」への回帰
このコストの安さにおいては以前書いた、OpenAIのCEOとして知られるSam Altmanについても説明しておきたい。彼はAI分野のみならず、エネルギー(特に核融合など)にも積極的に投資している。インタビューやブログを読めばわかるが、彼は「技術によって生産コストを下げること」を社会変革の要と捉えているように思う。詳しくは以前記事を書いたので読んでいただければ幸い。
AIが人間の労働の多くを代替できるようになれば、サービスや商品の価格を大幅に引き下げられる可能性がある。たとえば、飲食店の仕込みから接客に至るまでが自動化されれば、人件費の削減という形でコストが下がるのは想像に難くない。そして核融合のような新エネルギー技術が実用化されれば、電力コストが劇的に下がることで、建築・農業・運輸といったありとあらゆる産業の費用構造が変わるかもしれない。
Altmanは、こうした「AI×エネルギーのコスト削減」が社会全体の繁栄を生むと同時に、富の過集中を防ぐための再分配策(例えばUBI)も提言している。そのUBIの未来を達成するためにも「まずコストを下げる」ことが大前提だと彼は考えている。単にお金をばらまくのではなく、テクノロジーによって商品の値段そのものを低く抑えた上で、さらにUBIの世界がくることを目指している。
こうしたAltmanのアプローチは、かつてのインターネットが持っていた「初期投資の低さ」に似た発想でもあるように思う。つまり、人々が“試しやすい環境”を作り出し、多様なアイデアやビジネスが競い合えるようにする土台づくりだ。資金が潤沢な人や企業だけが恩恵を受ける構造ではなく、誰にでもチャンスが開かれるような社会を作りたいということは書かれてないが、そのように考えているのではないかと勝手に思っている。
「地方がフロンティア」になりえるかもしれない
ここまでインターネットの都市化やコストが安いことの意義を論じてきたが、実際に足元を見渡すと、リアルな世界でコストを抑えられる場所――すなわち“地方”――が次なるフロンティアになるかもしれない。たとえば香川のように、土地や建物がまだ比較的安価で入手できる地域では、ゲストハウスやカフェ、コワーキングスペース、さらにものづくり系の工房やアートギャラリーなどが次々に生まれる気配がある。
こうしたローカルビジネスは、地元の文化や自然資源と結びつきながら独自の魅力を育んでいる。もちろん都市部と比べて人の往来が少ないため、すぐに収益化が難しい面はあるかもしれない。しかし“低コスト”という武器があるおかげで、試行錯誤を繰り返しているうちに全国や海外から人を呼び寄せる業態へと変化する可能性もある。実際、高知県のように豊かな自然と独自のフードカルチャーを掛け合わせて移住者を増やしている地域もあるし、熊本県天草市のようにリモートワーク環境を整備してIT系人材を呼び込む動きも出てきている。
ここに、インターネットの販路を掛け合わせれば、地方から世界に向けたビジネスを展開することも可能だろう。今やECサイトやSNSの活用で地方発のブランドが注目を集める事例も少なくない。AIのさらなる普及によって広告やマーケティングの自動化が進めば、大きな資本がなくても効果的に情報発信を行えるようになると期待できる。そうなれば、より一層「地方×デジタル」の可能性が広がっていくと思う。
例えばそれはBUDDICAのような事業は一例になるかもしれない。地元香川県に本社があり、「広告宣伝費にお金をかけない」をモットーに地方における土地コストの安い店舗展開とSNSなどの集客によって成長していると自分は解釈している。こういったものはより地方出身の企業で伸びる会社はでてくるのではないかとも思う。
VCとしては地方の多様性をどう見るかは難しい
一方VCとして働いている身としては、急成長を求めることが一般的であるためこういったビジネスの多様性とは相性が悪いところもある。基本的にはフラット化していく資本主義の精神をもとに投資し、そのビジネスを再現性をもって侵略し、拡張していくことを考えている。
ただ多様でありながらも侵略・成長体質といったものが不可能ではないとはおもっているため、そういった相反する概念だがうまく落とし込んでいくことは試行錯誤がこれからの時代必要になってくるかもしれないとは思っている。
地方の“安さ”がインターネットらしさを再構築するかもしれない
かつてインターネットは“誰でも挑戦できる空間”だった。またその空気感はあった。しかし今や、そこには都会さながらの家賃高騰と熾烈な競争が渦巻いている。必然的に、資本力のある大企業や先行プレイヤーが優位に立ち、新参者の目立つ余地は限られてきたように感じる。一方、リアルな地方ではまだまだ安い空き家や土地、遊休資源が豊富にあり、それを起点にユニークなビジネスやコミュニティが育まれている。香川で自分が感じたものは、その一端を映す事例だと思う。
仮にAltmanのようにAIやエネルギーコストを極限まで下げる取り組みが進み、さらに地方の利便性(交通や通信インフラなど)を整える動きが活性化すれば、地方は概念として“新しいインターネット”のような存在になる可能性があるのではないかと考える。実際、コストの安さによる試行錯誤のしやすさは、かつてのウェブ黎明期と同じムードを帯びているのではないかともおもったりする。その時代を社会人として生きてはいないけれども、、
もちろん、地方ビジネスには人材確保やアクセス面でのハードルが存在するし、ネットの広告費もバカにできない現状は変わらない。しかし、いまの日本は人口減少と空き家問題を抱えているがゆえに、逆にいえば安い不動産を活用できる余地が大きく存在する。そこに可能性を見出す企業や個人が徐々に増えているのは確かだ。
さらに考えると、インターネットを通じて集客しながら、リアルの地方に拠点を構える“ハイブリッド型”のビジネスモデルが増えていくのではないかという気もする。オフィスや店舗は地方に置いてコストを抑え、デジタルでは広域なマーケットにアプローチする形だ。AIがビジネスオペレーションの多くを自動化してくれる時代が到来すれば、“どこに拠点を置くか”の優位性はますます地方寄りになるかもしれないと感じる。
また地方で味わった実感は「コストが安い場所には、ちょっとした実験精神や遊び心が息づいている」というものだった。人々が気軽にスペースを借りてイベントを開き、何か面白いことを始めている様子を見て、「これこそ、かつてインターネットが与えてくれた自由度に近いのではないか」と思ったのだ。クラフトなインターネットぽさ、雑だけどまあやってみるかみたいな精神というものが合った気がする。
そう考えると、これからのトレンドは「オンラインからオフラインへの揺り戻し」なのかもしれない。インターネットが高度に都市化した結果、逆にリアルの地方が新たな可能性のフロンティアとして再評価されている、と捉えることもできる。AIによるコスト低減のインパクトが大きくなれば、この流れはさらに加速しそうだ。
総じて、地方において都市部とは違う時間の流れやリスクの小ささ、そして何より挑戦しやすい空気があるところはある。一方地方に住んでいたのでここまで褒めてきたが基本的には保守的な文化が強いのも事実でもあるので、これまでの話はそういった芽吹きを感じるという温度感では正直あることも書いておこう。
ただ重複するが、インターネットの“都市化”が進んだ今、また地方のほうがより少子高齢化が進む中それが逆に地方がある種の“未開拓地”として改めてクローズアップされる時代に入ったのかもしれない──そんな予感を感じていて、自分も少し地方に関わることができればなとも思ったりもしている。
Appendix:多元主義的なものは地方から
最後に付け加えると、コストが高騰して参入障壁が上がる社会は、必然的に寡占的な構造を生みやすいと思う。かつてのインターネットが「誰でも挑戦できるフラットな空間」だったことを想起すればわかるように、敷居が低い状態こそ多様な試みや価値観が共存する土壌を育む。
しかし、それが奪われてしまえば、独占や寡占が強まるだけでなく、複数の考え方を等しく尊重する“多元主義”が弱体化していきかねない。行き着く先には、少数の巨大プレイヤーが支配する社会や、場合によっては全体主義的な空気さえ漂う可能性があると懸念している。そうした意味でも、コストを下げ、平等なスタートラインを確保することは、価値観の多元性を守る上で欠かせない要素なのかもしれない。
あとがき
地元に帰ると昔の友だちが起業していることが多く、もちろんその起業はスタートアップ的というよりは独立といったほうがいいものだが、そういうのに30代を超えて地元に帰るとすごく感じる。日頃スタートアップの世界にいると起業は当たり前だが、それが地元に帰っても塾や、農家、うどんや、写真館、結婚式場など個人事業として頑張っている友人たちがいることは刺激的だし、帰るたびに発見がある。
そういった地方にいって感じたものを年末言語化してみようと思ってトライしてみた。インターネットは好きだが、そのインターネット的世界観というのは逆にリアルに染み出して言っている気もする。一方で昨今のSNS含めてみると、多様な世界観がweb2.0あたりから漂っていたある主のヒッピー的な文化だったものがどんどん単一化していっているきがするし、全体主義っぽさを帯びている気がするのは自分だけなのだろうか。
そういったものに対してローカルの魅力というのはまだまだある気がしている。ただローカルの悪さも十分にある。そういったものをどちらもを見ながらすごしていきたいし、なにか香川でビジネスをやってもいいなと思えた帰省だった。一方で軸足を地方にうつすとかは多分ないんだろうなーとも思った。まあ全てはバランスだなと。
今年もこういうポエムみたいな記事も増えるかもしれないが、chatgptの力もかりつつ多く記事を書いていきたいのでよろしくお願いいたします。