3月に今の仕事をしていて初めてぐらい少しだけ長い休みをとって、ヨーロッパに観光に行った時に考えたことについて書いてみようと思う。GW前にギリギリ間に合ったので、ぜひ観光とか旅みたいなのをいく人たちに少し感じることがあれば嬉しい。
観光と旅
すごい自分はつまらない人間だなと休みを取ろうとして気づく。仕事に関してはやること、やりたいことはある程度出てくるのに、休みになったら自分のことでやりたいことが浮かばない。仕事では「目的→KPI→実行」が呼吸だが、私生活にその回路を適用すると空っぽだと気づく。行きたい国も、こだわりの趣味も思いつかない。セルフケアを忘れた人間。
どこもいきたいところがないなということに気づきどうしようかなと思ったのだけれども、途中から思考を変えることにした。旅行でどこかに行くことが目的ではなく、旅行自体を目的としたらいいのではないかと。そうすることで自分も納得できて、アムステルダム着・パリ発というものだけとって旅行に行くことができた。
何かを目的にしないと動けないのは若干今の資本主義的/ネオリベ的な価値観のように思える。その目的が何か経済的なものに結びつかないと動けない感じ。そういったものを感じる時はある。自分もやはりそれがこびりついている。まあどこかでまた書きたいが幸せになる才能が弱い。幸せというかwellbeing?生活?。そういったものを少しずつ脱却する練習・トレーニングをしている感じはある。
偶然性・誤配
“誤配こそが社会をつくり連帯をつくる。だからぼくたちは積極的に誤配に身を曝さねばならない。(観光客の哲学)”
そういった意味において偶然性みたいなことや東浩紀のいう誤配といったものは面白い概念だと思う。必然性や計画性の中では見えないものには価値があるような気がしている。それを自然にできるような才能を持っている人間もいるだろうが、自分のような人間はそういった才能がない人間は、偶然性を計画する練習をしないといけないとは思う。
そういった意味において目的がない旅行というものをしてみるのは一つ誤配や偶然性を取り入れる練習になるのではないか。そうして行動してみると意外に自分が想定していなかったものに出会うことができ、そのような出会いこそが生活に豊かさをもたらしたりする気もする。実際今回も旅行にいったからこそ気づいたことは多かった。
観光客というふわふわした概念の重要性
“20世紀が戦争の時代だとしたら、21世紀は観光の時代になるのかもしれない(観光客の哲学)”
そのようなことを思えたのも積読していた、観光客の哲学という本を行きの飛行機の中で読んだことが要因でもある。どうせ読むなら何か観光という行為をするために移動する時に読もうとしてとっていたが、いいタイミングで読めたと思う。(本自体は特に観光の本ではないので悪しからず、、)
観光ということ自体がそもそも確かに生きていくためには必要ではない、合理的ではない。なぜ目的もなく海外を訪れるのか?別にそこに行かなくても死ぬことはないし、必須のものではない。しかしその観光という行為自体は誰しもおこなってきている。観光という行為は非常によくわからないふわふわしたものだと確かに思う。
そういったふわふわしたものを否定したくなるのが、ネオリベ的だし今の社会はそういった方向性に非常に傾いていってしまっているように思える。実際自分も冒頭にいざ休みを取ってもすることがない、旅行といってもビジネスイベントがあっていくとかはできるけど、自由にしたら何も行きたい国がないなということになってしまう。今の世界の雰囲気としてそういうふわふわしたものを許せない感じになってきてしまっている気がしている。白黒はっきりつけたがる議論的な体質がSNS中心に広がっており、息がつまる。
現代においてはこういった中途半端みたいな浮いた存在というのは、どちらかというと悪いものと扱われている気はするが、本質主義の弊害でもあるようには思える。昔にスタートアップかどうかの定義は曖昧であるみたいな記事を書いたが、それも同じように明快な線を引くことによって見失うものも多くあるのではないかと思っている。観光という行為を考えた時にそういった宙ぶらりんな行為の大切さを教えてくれた気がする。
いいかげんであること、中途半端であること、「ゆるく」考え「ゆるく」つながっていくことを肯定する書でもある。 哲学はずっと、議論の争点をクリアにし、友と敵の関係をはっきりさせ、世界のなかにラディカルに線を引くことばかりを目指してきた。けれどもそれだけでは見失われるものがある。というよりも、世界をよくするためには、とりわけ分断と二極化があらゆるところで話題になっている二一世紀の世界においては、その見失われたものこそが重要である(観光客の哲学)
グローバリゼーションと観光
実際にまあうだうだ上記のようなことを考えながら、3都市を巡ってみた。各都市の感想については下記記事でぜひ読んでほしい。
アムステルダム;https://www.whatocome.xyz/amusuterudamu-sheng-huo-wogan-zirarerujie/
プラハ:https://www.whatocome.xyz/puraha-shen-mi-toping-zhun-hua-noting/
パリ:https://www.whatocome.xyz/pari-guan-guang-tochuan-tong-tosheng-huo-ogata-japantoparisnorong-he/
その中で感じたこととしては、グローバリゼーションの進展において観光がフワフワしたものでだんだんなくなっていくかもしれないということだ。前段で誤配的な、そう言ったいい加減な経験・重要性をある種強制的にも思い出すことができる可能性があることが観光の良さだと言いつつ、今回旅をして思ったのだがそれがよりグローバリゼーションによってそう言った感情を感じづらくなってきてしまっている可能性がある。
それは例えばプラハの箇所でも書いたが旧市街地でスタバのロゴやシャネルのロゴが町中にある。それはグローバル均質化であり、予定調和の町になってしまっていることが原因であるように思う。そういうのがグローバルブランドが見知らぬ街であると安心するし、便利だが、予定調和すぎてフワフワしたものではない。確固たるものになってしまう。
グローバリゼーションは観光人口を押し上げた一方で、観光そのものの“濃度”を下げた。どこでも同じカフェラテが飲める世界では、観光=消費になり、宙ぶらりんの余白が消える。それは日本を見てもそう思う。どこの都市も同じような便利な都市にしようとすると、景色や見えるものが均質化されていってしまうという罠があるように思う。
観光の可能性
一方で観光という行為は今後も伸び続けるし、観光という行為自体が禁止されたり注目を浴びなくなっていくことは、世界平和から遠ざかってしまう可能性がある。観光客という存在の重要性は確かに存在する。
しかしグローバリゼーションの進展とともに予定調和の街ができてきてしまうのは正直止められないであろう。そうした時に本当の意味での観光というものをどのように取り戻すことができるのだろうか?そのような機会を提供することができた企業は大きなマーケット機会を手に入れることができるのかもしれない。
例えばそれはブティックホテルという形なのかもしれないし、おてつたびさんのような観光と活動みたいなのを混ぜたものなのかもしれない。チェルノブイリのようなダークツーリズム的な旅行パッケージの発明なのかもしれない。ローカルガイドのような市場なのかもしれないし、レジデンシャルホスピタリティのような領域かもしれないし、自分もまだわかっていない。
しかしその辺りのニーズは今後伸びていくし、そういったものを作り出していくことでゆるくふわふわしたものが行き来きすることが、観光客の哲学にも出てくる、カントの永久平和のためにある訪問権の肯定に繋がるのではないかと思う。ぜひこの観光の方法はそういったことをはらんでいるのではないかというものがあったら教えてほしい。グローバル化のオルタナティヴへのヒントもこの辺りにある気もしている。
アムステルダムで、自転車を借りた時に「1 時間オーバー? 4 時間料金でいいよ」と笑った瞬間、何か救われた気がした。あの時に合理ではない何かが動かした感じがあった。観光の重要さが合理を外れたところにあるというのはこの一瞬の手触りにあるような気がしている。この手触り感をスケーラブルに設計できるのであれば、予定調和に沈みかけた観光という行為ももう一度誤配の可能性、偶然の可能性のもとに設計することができるのではないか、そんなことが次の投資のテーマにもなりうるかもしれないと思えた。
観光は市民社会の成熟と関係しない。観光は国家の外交的な意志とも関係しない。言い換えれば、共和制とも国家連合とも関係しない。観光客は、ただ自分の利己心と旅行業者の商業精神に導かれて、他国を訪問するだけである。にもかかわらず、その訪問=観光の事実は平和の条件になる。それがカントが言いたかったことではないか(中略)
ぼくたちは、ならずもの国家は排除するほかないかもしれないが、ならずもの国家からの観光客は排除してはならない。中国といくら国交が悪化しても中国からの観光客を受け入れねばならないし、ロシアといくら国交が悪化してもロシアからの観光客を受け入れなければならない。それは中国なりロシアなりを国家として評価するからではない。そのような権利を普遍的に保障しなければ、それ自体は中国やロシアと無関係につくることができる永遠平和のための国家連合、それそのものの原理が内部から蝕まれるからなのである。(観光客の哲学)
他者を通じてしか自分は見れない
最後に久々にヨーロッパなど文化圏が全く違うところにいったことによって改めて、他の国や何かを見て相対化することでしか自分のことや自分の国のことは考えることができないのかもしれないと思えた。そのためにも国外に出ることは重要な気がしている。
今まさに各国が保守主義っぽく国を閉じていく方向性になってきているが観光自体は止めてはいけないような気がしている。香川から出てうどんが好きなんだと気づいたように、日本から出てみると日本のことを知れるような現象は当たり前だけど改めて感じた。なので逆説的だが海外のことを知るために海外に出るのではなく、日本を知るために海外に出るみたいなのは今後大切にしたいと思えた。
データを見ると日本からの海外への観光客はコロナ前の2,008万人がピークに、まだ7割基準ぐらいしか戻ってきていない。コロナは仕方ないけど、海外への観光客が減ってしまっている。もちろん円安など行きづらさは増してきているが、そうして海外にいくことがなければ日本のことを知ることも海外のことも知ることもなくなっていく、そうしたことは今の内向きなベクトルが多い国際情勢をさらに助長させる可能性もあるだろう。なのでもし読者の方で自分と同じような人がいて、観光に興味がなくても観光・旅自体に行くこと自体が発見があるかもしれないので、行ってみてほしい。
自分もその偶然性を取り入れるために四半期に一度ぐらいは目的がなく海外にいくことを設定してみたいなと思う。3月に行ったので、今度は6月か7月ぐらいに行ってみようと思う。おすすめの国があればぜひ教えていただけると幸いである。
やっと書けた
この観光のテーマで書きたいと思いつつ、日々が忙しく手をつけれなかったが、GW前(いや途中だけど)に間に合って良かった。いや間に合ってないか。
この辺りの合理と非合理みたいなテーマはずっと追っているし、自分も考えている。そのあたりの中から、次のユニコーン企業のような大きな企業が生まれる気配がある気がしている。
今年はよりそういう非合理みたいなものはもっと追いかけていきたい。そもそもがそういうのが苦手なのでより、気をつけたい。