たまたま高木さんのYouTubeに映った。そこで30代のナラティブについて話していたが、もう少し自分の考えの記録のためにも残しておこうと思い記事に残しておきたい。
30代のナラティブとは何か
自分も今33歳となって、この辺りの年齢って何か浮いている存在な気がする。社会的にみたら若者ではあるが、20代からしたら若者ではない。中年かというと40代からしたら若者である。なんというか中途半端な年代だなと感じる。年齢で区切るとエイジズムっぽさはあり居心地の悪さもあるが、例えば社会人歴10年目ぐらいの人たちが感じることにも近いと解釈をしなおした方がいいのかもしれない。
資本主義社会なのか、成熟社会なのかどちらの要因も絡んでいるとは思うが、ある程度歳を重ねていると上には上がいるし、だいぶ詰まっているなという感覚が出てくる。それは会社やキャリアにおいてもそうだとおもう。もちろんここで突き抜けたレベルの人は出てくると思う。しかし、自分は社会に出ていろんな人と会う中で良くも悪くも自分の限界感というのも感じることがある。
マーク・フィッシャーの言う「再帰的無能感」——システムの問題を認識し批判的に考えることはできるが、実際にはそれを変えることができないという現代的な無力感——のようなものを感じることも多くなってきた。
20代ほど無知だから見える希望もなければ、さらに上の世代のサクセッションというほどの物語でもない、30代のナラティブ・物語はどういうことがあるのだろうか。
20代のナラティブとは何か
10-20代のナラティブとかは比較的わかりやすい気はしている。"前に進むこと"であり、"広義の貢献・勝つこと"が重要なような気がする。(もちろんそれが非常に大変であるし、わかりやすいからしんどくないとかそういう話ではないことはわかっている。)いわばある程度シラバスがある。そして社会人になったとしても大抵の20代はそこにもある程度のシラバスが最初用意されている(スタートアップや起業家という道を選ぶとまた少し別だが)
過去の方々が作ったシラバスを参照しながら、自分ができることをやって何かを貢献する、勝ったという感覚をどう得ていくみたいなのは20代のナラティブであるように個人的には感じている。少しこれは自分含めて仕事をしたいという前のめりな、"意識が高い"と言われて揶揄されても仕方ない感じの2010年代の学生ならではのナラティブかもしれないと書きながら思ってはいるが・・
説教くさいのは嫌だけれども、"守破離"という言葉は良い言葉だなと思う。20代はある種保守的にならざるを得ないことが多い。何も知らないからこそ、一部の天才は突き抜けていけるが、自分含めて大体の人はまずは従来の仕事を学んでそれを覚えることから始まる、レガシーの尊重だ。そうすることで20代はある種のナラティブを持つことができる。
30代が直面する「物語真空」
一方で30代は「外部シラバス」が消失した年代に感じる。受験や就活で与えられていたKPIがなくなり、過去の人が用意してくれたシラバス・レガシーを尊重するだけでは限界を感じる。自分で設計図を書かなければならない。また同時多発の選択圧というものが色々重なってくる、昇進・転職・家族形成・健康・介護のような選択をしないといけないことが増えてくる。その中で自分なりの設計図を書く必要がある。
この年代特有の課題として、同時多発的な選択圧が重なってくる。昇進・転職・家族形成・健康・介護など、様々な選択を迫られる中で、自分なりの設計図を書く必要がある。
特にスタートアップ業界では、20代で部長などより良いポジションに着く可能性が大企業に比べて早い。これは良い面も多いが、今回の課題の切り口においては「勝つ」という物語の終わりが早めに来てしまうことがある。(早期にExitしてお金持ちになった起業家も広義で言うと近い)
このような物語真空にあたった時に、一つの選択肢としてある物語は”家族”だ。
家族というナラティブと窮屈感
東京の第一子出産の平均年齢が32.4歳(2023年 e-start調べ)という統計が示すように、多くの人が30代で「家族形成」という物語を選択している。これは一つの明確なナラティブとして機能している:20代でキャリアを積み、30代で家族を築くという人生設計だ。
確かに、家族という物語は30代にとって重要な選択肢の一つだろう。周囲を見ても、また自分自身を振り返っても、この年代で家族について考える機会は増える。結婚、出産、子育てといったライフイベントは、新しい意味や目的を与えてくれる可能性がある。
しかし、これを30代の唯一のナラティブとして定義するには限界がある。現実として、少子化という社会現象は、全ての人がこの物語を選択しているわけではない、あるいは選択できるわけではないことを示している。経済的な理由、キャリアとの両立の困難さ、パートナーシップの問題、あるいは単純に子どもを持ちたくないという選択など、様々な要因が関わっている。
『資本主義の危機としての少子化』で論じられているように、少子化は「資本主義そのものが内包する最大級の危機」として捉えることができる一方で、それは同時に「資本と国家が踏み込めない最後の外部」としての個人の生殖選択の自由が残っている証拠でもある。つまり、家族を持たない選択もまた、現代社会における正当な選択肢として尊重されるべきなのだ。
もし家族形成だけを30代のナラティブとして位置づけてしまうと、それ以外の選択をする人々にとって社会は窮屈なものになってしまう。多様な生き方が認められる社会であるためには、家族以外の物語も同じように価値のあるものとして認識される必要がある。
ではどういうふうに考えると良いのだろうか、自分なりの今の考え方を模索したい。
理解・分解・再構築
30代のナラティブを考える時、「理解・分解・再構築」というプロセスが重要になってくるように思う。これは鋼の錬金術師の中にある言葉で、錬金術の基本原則と言われているが、このテーマを考えるときに頭に浮かんだ。20代で学んだレガシーや既存のシステムを一度深く理解し、それを自分なりに分解して、新しい文脈で再構築していく段階なのかもしれない。
冒頭書いたような、自分の才能の限界や構造的なものの限界を社会人歴が長くなってくると感じてしまうことが多くなってくると思う。地主が強いなーとか、実家が太いやつは強いなーとか、どれだけ頑張っても上が詰まっていたら仕方ないなーとか、構造的な要因をみえた上で、ルサンチマンに陥ってしまうと再起的無能感に陥ってしまう。それを理解した上で、それでもどうしていきたいかということを考えないといけない。
この状況は、まさにポストモダン的な「大きな物語の終焉」と「限界の認識」を体現している。20代までの「前に進むこと」「勝つこと」という明確な物語が消失し、代わりに現れるのは「退屈なディストピア」とも言える現実だ。しかし、この認識は決してネガティブなものではない。
ポストモダン思想が示唆するように、大きな物語が終焉した後には、より小さな、しかし確かな物語の可能性が開かれる。それは「理解・分解・再構築」というプロセスを通じて、既存のシステムを一度分解し、自分の状況に合わせて再構築していく作業だ。
この作業は、単なる反抗や革新ではなく、むしろ保守的な理解から始まる創造的なプロセスである。既存のものを否定するのではなく、その本質を理解した上で、自分の状況や時代に合わせて再編集していく。これは、ポストモダン的な「新しいユートピア」の可能性を探る試みとも言える。
自分のスタイルを考えるということ
友人のCanteenの遠山さんと話している時に、良いアーティストはStyleがあるみたいな話をしたのがこの話を考える時になんとなく浮かんだ。このStyleというのは、体型とかそういう話ではなく思想でありその人らしさ・その人の正直さみたいな話だと自分は捉えている。
20代のナラティブだと保守的に一定なる。それは誰かのStyleを真似するという感じがある。それはある程度のシラバスがあるからだと思う。そこから出ていくということは、自分のStyleを考えるということなんだと思った。あの人っぽいよねっというのは、理解・分解・再構築の先に出てくるような言葉な気もする。
The goal of Nature is Man, the goal of Man is Style
そんな中で、フランスに旅行にいった時にポンピドゥーセンターでの展示のデ・ステイル運動の説明の一説に目が行った。「自然の目的は人間であり、人間の目的は様式である(The goal of Nature is Man, the goal of Man is Style)」という理念だ。
De Stijl(デ・ステイル)は、1917年にオランダで生まれた前衛的な美術・デザイン運動で、名前はオランダ語で「様式」や「スタイル」を意味し、絵画、建築、デザイン、タイポグラフィ、都市計画まで、多領域にわたる活動を特徴である。この運動はピート・モンドリアンを中心に展開され、彼は新造形主義(ネオプラスティシズム)の基盤を作ったとも言われている。
この思想が30代のナラティブを考える上で重要だと感じるのは、それが「模倣から創造への転換点」を明確に示しているからだ。20代が「自然から人間へ」の段階、つまり与えられた環境や既存のシステムの中で人間として成長していく段階だとすれば、30代は「人間から様式へ」の段階、つまり自分なりの秩序や調和の原理を見つけ出し、それを実現していく段階なのではないだろうか。
デ・ステイル運動が目指したのは、個人的な感情や偶然性を排除し、普遍的な美の法則を追求することだった。しかし、ここで重要なのは「普遍的」という言葉の意味だ。それは誰にでも当てはまる画一的なものではなく、むしろ個人が深く理解・分解・再構築したプロセスを通じて到達する、その人固有の「普遍性」なのだと思う。それを世界を再構成する秩序・調和の原理を意味だと彼らは考えていたはずだ。
モンドリアンが最終的に到達した格子と原色による抽象絵画は、彼が自然を観察し、それを徹底的に分解し、再構築した結果生まれた「モンドリアンのStyle」だった。それは他の誰にも真似できない、しかし同時に多くの人に影響を与える普遍性を持っていた。
30代のナラティブも同様に、20代で学んだ既存のシステムや価値観を一度分解し、自分の状況や価値観に合わせて再構築していく過程で生まれる「自分のStyle」の確立なのかもしれない。それは家族形成かもしれないし、キャリアの再定義かもしれないし、創作活動かもしれないし、社会貢献かもしれない。重要なのは、それが他人の真似ではなく、自分なりの理解と分解と再構築を経て生まれたものであることだ。
そういったものを自分もこの数年は考えながら過ごしているし、多分こういうスタートアップや仕事に関係ない記事を書いているのは自分なりのStyleを模索しているのだと思う。別にこの考え方が自分も正しいとは思わないが、同じ年ぐらいの人たちで同じような悩みを抱えている人に対して何かこの記事が問いとして考えるきっかけになれば幸いである。
Appendix:宗教/全体主義の時代に入る可能性はある
今回のメインのテーマではないが、30代の「物語真空」と「Style確立」という議論を深める中で、避けては通れない重要な問題がある。それは、ポストモダン的な問いが起こることによる反動として、自分で再構築することを放棄し、外部から与えられた「大義」や「物語」に依存してしまう可能性だ。
名作映画の『ファイトクラブ』で、主人公が「私たちは大義のない時代に生きている」と語るシーンがある。この言葉は、現代の30代が直面する「物語真空」の本質を突いている。大義や明確な目的が失われた時代において、人々はしばしば全体主義的な思想や運動に引き寄せられる傾向がある。
これは偶然ではない。『ファイトクラブ』の物語は、消費社会に疲弊した現代人が、プロジェクト・メイヘムという過激な運動に引き寄せられていく過程を描いている。主人公は最初、自己啓発セミナーに通い、次にファイトクラブに参加し、最後にはプロジェクト・メイヘムという過激な運動に加わる。
この流れは、現代人が「物語真空」を埋めるために、次々と新しい「大義」を求めて彷徨う姿を象徴している。しかし、ここで重要なのは、プロジェクト・メイヘムが最終的に失敗に終わることだ。それは、外部から与えられた「大義」や「物語」が、真の解決策にはなり得ないことを示している。むしろ、それは新たな問題を生み出すだけだ。
30代の私たちが直面する課題は、この「物語真空」を埋めるために、安易に全体主義的な思想や運動に飛びつくことではないが、そういった思想や運動みたいなものは残念ながら今後も起き続ける土壌が出来つつあるようにも思う。これは今回の主テーマである30代とか関係ないが、そういう時代に生きていることはメタに認知しながら生きていきたい。
こういった宗教の時代が来る予感はあるが、その辺りの話はまた別の記事にて考えたい。この時代の重要なテーマであるはずだ。
Video Podcast:infoboxがいかに海外Top-tier 起業家から調達したのか
久しぶりにVideo podcastをとってみた。結構動画との向き合い方はこの1年ぐらいで考えたいなと思っている。今回は海外のTop-tierの起業家から調達を行えた投資先のinfoboxの平沼さんに話を伺ってみることにした。内容のサマリーはAIを活用して下記に、簡易にまとめているが、ぜひ時間があるときに2倍速で見ていただくと彼の人柄も動画で伝わる気がするのでぜひ。
海外トップ起業家から“心で資金調達”
泥の 6 年と奇跡の 1 年――ようやく噛み合った歯車
Infobox が正式にローンチしたのは 2024 年 2 月末。だが会社自体は 2018 年に生まれている。創業者の平沼さんは、この 6 年間を「泥の 6 年」と振り返る。営業データベースの受託開発、CRM 風アプリ、SFA もどき……試作品は次々に出すものの、「日本の営業データは整備されていない」という原点的な問いの解像度が足りず、決定打を欠いた。
転機は 2023 年。生成 AI が爆発的に注目され、リード獲得と営業効率の“常識”が崩れ始めたタイミングだった。「データ × AI」に一点張りで舵を切ると、ユーザー数と ARR が同時に跳ね上がった。こうして「奇跡の 1 年」を迎える。
SaaStr の 30 秒が運命を変えた
2024 年秋、サンフランシスコで開催された SaaStr Annual に参加した平沼さんは、G2 の共同創業者ゴダード氏と偶然鉢合わせた。英語が話せず「Nice to meet you」以外が出てこない。場が凍りかけた瞬間、
“Infobox is the ZoomInfo for Japan.”
とだけ伝えた。たったそれだけでゴダード氏の目が輝き、会話は 30 秒で終了。だがその夜、氏は ZoomInfo 創業者ヘンリー・シュカールに「日本で面白い会社を見つけた」とメールを送り、平沼さんを CC に入れた。
週 1 通、返信ゼロでも送り続けた 14 通目
帰国後、面談をしたのちに、平沼さんは ChatGPT で英語メールを作成し、週 1 通ペースでヘンリー氏に送り続けた。最初の 13 通は既読スルー。それでも諦めず 14 通目を送ったところ、ヘンリー氏のファミリーオフィス CEO から
“Henry instructed us to invest.”
という一行メールが届く。社内は歓喜の雄叫び。業界の“キング”から日本企業として初めて出資を引き出した瞬間だった。
シリーズ B を逆算した資本戦略と“逆算採用”
平沼さんは 2026 年上期にシリーズ B で 40–50 億円を北米 VC から調達する計画を公言している。シリーズ A をクローズするタイミングですでに B 向けファンドにもピッチし、「次は君だ」と布石を打つ。採用も同じだ。今後の採用に向けても動画では熱いメッセージを話している。
日本の起業家へ――パッションは翻訳不要
最後に平沼さんは、これから海外資金に挑む日本の創業者へ 3 つのメッセージを残した。
トップに最速で当たれ ― 情報は劣化する前に直接取りに行く。
Investor Update を英語で毎月配信せよ ― 読まれなくても送り続ける習慣が信頼を醸成する。
パッションは世界共通語 ― 語学は努力で補えるが、熱量は偽装できない。
編集後記(中路)
パッションがバベルの塔を越えた瞬間を目の当たりにした。英語力ゼロでも、行動量と情熱で一行メールを引き寄せられる―その好例が平沼さんだ。海外の“頂点”を最初から仲間にする。そんなムーブメントが日本スタートアップ界にもっと広がることを願いたい。
今の時代の課題感が非常によく理解できる本だった。おすすめ。
現代社会が抱えるゲーム化した社会を生きていくことの息苦しさについてと、それをどう乗り越えるかという意味において庭というメタファーを用いながら説明していく。
自分も昔現代のコーヒーハウスはどこにあるのかみたいな問いを投げだことはあるが、庭もそれに近い。もっというとコーヒーハウスより、人間味をなくしたものが大事だということが一貫してある。
web2.0の反省文であるようにも思える本書は、人間のことをそこまで期待していない。人間同士が共同体を作り、そういったコミュニティを取り戻すといったありがちな論調に同意していない点が面白い。むしろ孤独を通して共同体のような、共同体でないようなものを大事にする精神こそが重要というようにある。これは東の観光の哲学の要素にも似たようなものだと思う。それを著者なりのメタファーで捉えたのが庭だ。
「庭」は、人間以外の草木や虫、鳥獣といった多様な存在が織りなす生態系の場であり、人間が介在せずとも濃密なコミュニケーションと生成変化が絶えず発生している。この「庭」に触れることで、私たちは人間中心の閉じたゲームから解放され、本来の多様な身体性を取り戻すことができるのではないか、という提言には強く共感した。
家でもなく、完全に個でもなく、庭という概念をどのように社会実装できるかが今後より求められる感覚が強い。そういったものを自分も見つけていきたいし、生み出したい。
なんやかんやバタバタしており、1ヶ月ほど書きたいことだけが募って、書けてなかったのでそろそろちゃんと定期更新をしていきたい。
ぜひご登録などよろしくお願いしします。