ちょうどこのメルマガを始めてからナンバリングしていくなかで50というキリがいい数字だったため、改めてこのメルマガの存在意義とか文章を書くことについての自分の考えをまとめてみたいと思う。
VCと文章
VCという仕事を初めて6-7年ぐらい経つ。結構長くなってきたのに実績がまだ出せてない焦りもあるし、一方基本的には長い仕事でより10-20年以上この業界で活躍している先輩方がいる中においてはまだまだひよっこなのかもしれない。
そういったまだ長くはないがVCとして働く上で、いろいろと自分の考えをアウトプットして長文を書いてきた。このメルマガという形では50記事目だが、多分VCとしては70-80記事ぐらいは長文を書いている気がする。それは現X(旧Txitter)などが一番短文としては量としては多いけれども、古くはMediumからnoteから、実はWhat’s to Comeという独自ドメインの記事をGhostというアプリで作成して運用していたこともある(今も残ってはいる)。
なぜVCがそういった文章を書いたり発信したりすることにインセンティブがあるかというと、特に実績や与信がない人からすると自分がどういう人かということを起業家に見つけてもらわないといけないからである。まずは認知がないと相談も来ない。
なのでそのための活動としてなんでもしていいとおもうが(例えばDMしまくるや、飲み会にいきまくるや、昔の友人を起業相談に乗るとか)、文章を書いたりして発信することは、見つけてもらう/認知に繋がる活動である。
なのでみんな暇だからXやっているわけではなく(いやそれもあるかもだけど)、一応そういった構造的引力がある(かといってSNS運用だけすればいいという話ではないし、こうすればいいという勝ち方があるわけではまったくない)
VCと思想/人格
何回か自分は書いた事があると思うけども、人に関する意思決定をするとき(誰を採用するか、誰から調達したいか etc..)には、ポートフォリオ(実績)と思想/人格 のどちらもが重要だと考えている。(あとはお金という軸もあるが、分かり易いので省略)
どういうことをしてきた人(実績)で、どういうことを考えている人なのか(思想)ということが、何の意思決定においても人を見る観点では重要。VCの場合は前者は投資先という形で現れやすい。そしてそれだけではない後者を伝えるために文章を書いたり、人に話したりするのだと捉えている。これはVCだけではなく、起業家やクリエイターなども全てに当てはまる気もする。
何が言いたいかというと、その思想/人格の表現方法としてのSNSやこういった長文を書くことには仕事上においても意味はあるということ。ただし、直接的にはどのぐらいこういった活動が、アトリビューション(間接効果)あるのか(広告業界のもう死語かもしれないが)はわからないというのは正直なところ。
そういった前提を踏まえて、どういう存在意義を感じてこのメルマガを書いているのか少し自分なりに解釈/書きながら気づいたこともあるので記載してみる。
What’s To Comeというタイトル
実は一度もこのレター/メルマガのタイトルについて説明したことがない。正直あんまりタイトルの意味をなしてはないかつ、変わる可能性があるからそこまで書かずにここまで更新してきた。
ニュースレターっぽい運用にしようかどうか迷いながら、タイトルを考えていたのだけれども、自分の大方針のベクトルを言語化することが、どんな運用になったとしても耐えうるタイトルだなと思い、What’s To Come という言語化で仮固定した。
自分の今後の人生のベクトルとして、”新しいものや人や概念に触り続けられること”っていうのは大体決めている。そのため今の仕事のVCもそれに当てはまるし、多分雑誌や漫画の編集者とかも当てはまるし、ギャラリー運営や本屋や、新聞記者とかも当てはまるかもしれない。なにかしら職業に当てはめなくてもいいかもしれない。人生まだまだどうなっていくか正直わからないが、このベクトルは変らないつもり。
なので、次に何がくるのか?どういった未来があるのか?そういったことに対しての興味関心が強く、それをまた創っていく人たちにも興味がある。そういったことの言語化ができればいいなと思っているので、What's To Comeというタイトルにしている。なので起業やアトレプレナーシップについても書いているし、加速主義の記事のような事も書いているし、投資先も紹介したりしているし、いろいろ定義の解釈が広くとれるからこそ更新をし続けることができているような気がしている。
なのでこのブログの記事を読んで未来のことについて少しでも読んでくれた方が妄想してくれたり、思考する機会を提供することができたら自分としてはそれだけで満足である。
ではなぜnoteなどでも更新しているが、メルマガもやっているのかについて書いていきたい。
メルマガという媒体の良さ
なぜメルマガっぽいところを主軸としたかというと、届く人に届いてほしいということを大事にできる引力をつくりたいとおもったときにメルマガが相性良いなと思えたからだ。(もしかしたらPodcastもこれに当てはまる気もする)
今のXなどを見ているとオススメタブなどは炎上しているものがよく見れたり、人のアテンションを奪い合うような引力が働く。そうすると自分が本当に表現したいものや届けたいもの考えたいことから離れていってしまう構造や引力が強くなる。人はそういったものに、自分含めて弱い。そういうファストなものに流されないものをつくるためには、メルマガという方法は相性が良い。
自分もせっかくこういった記事を土日や平日の夜などに時間をかけて今もこうやって書いているのだが、書いたなら読まれたい。その欲はある。しかし、読まれるような記事を書こうとおもうと、それは上記の引力にハマってしまうし、一周回って仕事上大事な思想/人格を出すという目的感からもズレてきてしまう。
ただ、メルマガの場合はまさに今メールで読んでいただけている方もいるかとは思うが、確実に登録いただいている方のメールボックスには届く。それを読むかどうかはその人にかかっているかもしれないが、とりあえずは届く。その届くという感覚が、その人たちに向かって書けば良いという引力に繋がる。
なのでメールを登録していただき、読んでくれている方々本当にありがたい。お会いした時に一番うれしいのは、メルマガ読んでますといわれることで、本当に感謝。
公空間と私空間の狭間
上記の内容とも重複するが、メルマガなどの媒体は公空間と私空間の狭間にあるように感じるから面白い。そういった空間だからこそ書けるようなこともあるのではないかとも思う。
アメリカの哲学者リチャード・ローティーが、公共空間としてのバザールと、私的な空間としてのクラブ、どちらも生きていく上では重要で、本質的に正しいことははなく二面性があっても良いことを「偶然性・アイロニー・連帯」では書いていたが、特に今の世の中、インターネット上の空間はバザールしかなく、本当に揚げ足をとるようなものになってきているように感じる。
例えばそれはXがいい例だろう。なんども取り上げてきていはいるが、昔は私的な空間のような空気だった、Twitterという空間だったものが、すべてがバザール/公的な空間になってしまったがために、クラブだと思って発言したものが炎上してしまったりしている。
1日を終えて退避できるようなクラブ的空間が減少していっている。個人的には鍵付きのSNSの更にインスタのような消えるようなところがあえていうならばクラブっぽさはある。
公共空間としての「バザール」と、私的な空間としての「クラブ」が対比されています。生活のために「バザール」で生きていかざるをえない私たちにとって、一日を終えて退避できるような「クラブ」もまた必要なのだ。
(中略)
昼間バザールで会った人間についての、悪口で済めばまだいいところ、場合によっては差別的な言動や、公共空間ではとても言えないようなことばづかいが飛び交うかもしれない。そういう危うさを秘めた場所でもあるのがクラブ。
メールマガジンとして配信するという形式は、その公的空間と、私的空間の中間のように思える。例えばこの文章はメールアドレスを登録しなくても読めるが、Xのアルゴリズム上はSubstackは評価が厳しいのでそこまでブーストされることはない(多分)
逆にメールアドレスを登録してくれている方からすると、必ず自分のメールボックスに届くようになる。メールボックスというのはある種の私的な空間である。そこにこの記事は入っている。なので非常に中間的な媒体であるなと感じる。
公共圏をいかに創るのか
公共圏という言葉は下記の文章で初めて知ったのだが、まさに中間的なこのメルマガとかは近いのかもしれないとは思えた。ただ双方向性がないので議論を交わすことはできない。一方では今のXで議論をしようとおもうかというと、全く思わない。
どこかでこれも記事として書いてみたいとはおもうが、そういった公共圏が今社会に減ってきているのが問題なのではないかと考えている。例えばそれはフランスのコーヒーハウスだったり、日本の場合茶室だったりしたのではないか。
社会に足りないのはこういった公共圏の性格を帯びているような場所や連帯なのではないかと思ったりもしている。もしかするとそれはシーシャとかなのかもしれないし、DAO的なコミュニティなのかもしれない。このあたりについてはもう少し考えてみたいが、長くなりすぎてしまうのでまたどこかでこれも考えようと思う。
「公共圏」とは、私生活からも国家からも切り離され、人々が自分たちの住む社会について知的な議論を交わす場所のこと。「公共圏」の例として挙げられているのが、16世紀に活躍したオランダの学者エラスムスによる手紙のネットワークだ。彼は、人生の大部分を馬に乗ってヨーロッパを横断し、魅力的な人々を訪ねては紹介し合った。こうした人たちと交わした手紙が後に出版され、朗読会などで多くの人がそれに触れるようになった。(Lobbsterのメルマガより)
新しい友達をつくるために書いている
今までメルマガという媒体の特徴について書いてきたが、その効用についても触れて起きたい。書くという行為がなにがよいかというと、考えられることである。言語化することで捨象するのものも多いが、考えるという行為と言語は密接に結びついている。書かないと考えていないといっても過言ではない。
実際にこのように書いているときに、自分と対話している感覚になる。一種のメディテーション的な、ああこんなこと自分は考えていたんだということを書き終わったときに感じることも多い。そのような自分の人格が漏れるようなことが文章を書くことによってできる。これが何に繋がるかというと友達づくりに繋がるように思える。
公的な空間で会う人は友達になりずらい、それは公的な空間用の顔をするからだ。このメルマガの記事の文章は全部自分が書いている。なのであんまり文章が上手くはないし、誤字脱字や正直文章が支離滅裂っぽくなっているところはあると思う。でもこれで良い気がしている。このような私的な自分の面がだせるからこそ、友達が創れるように思える。
実際書くことによって、繋がりを持てた友人は多くはないが何名かでてきており、それはスタートアップ業界などの人でない場合も多く、これが書くことの良さだなとしみじみと思う。自分のために書いたものであったのに染み出して、誰かに届きその人と友人になれる可能性がある。
それは最近またもやLobbsterなどでとりあげたPodcastをとることによって、特に男性は友達が創れるという記事は頷きが多かった。自分も更新は少ないもののPodcastもやっており、こっちもそろそろ本格的に運用しても良いかもと思えた。(男性がという主語を強く押し出したいわけではないが)
「FOR THE MODERN MAN, A NEW FRIEND IS JUST A PODCAST AWAY」と題された『MEL Magazine』記事は、ポッドキャストが(特に男性にとって)新たな友情を築くための有力なツールと化していることを指摘している。
(中略)
この記事が指摘するように、大概の場合、男性には、友情を築くための感情的な構えや精神の自由が欠けている(強く同意する)。ポッドキャストには、男性たちのそうしたスキルの欠落を埋めてくれるパワーがある。カシミールはこう語る。「"やあ、君は本当に頭が良くて面白いし、君のクリエイティブな仕事ぶりを尊敬しているよ。もし暇なら、3時間電話で話さないか?”と話しかけるのは、とても気持ち悪い。でも、同じ質問に(ポッドキャストという)タスクと目的を付け加えれば、全く問題なくなる」。(Lobbstterより引用)
地方にある個店の雰囲気
ここまで書いてきて、何か自分が感じているものに近いかもとおもったのが地方にある個店の雰囲気だ。チェーン店も好きだが、自分は個店が非常に好きだ。そういった店が多くある街なども非常に好き。
そういった個店は決して綺麗なところばかりではなく、店主の思想やこだわりや享楽がつまったところが多いのではないかと思う。半分ぐらいは自分の心を満たすためにもやっている気はしている。(チェーン店がそうじゃないというわけではないが・・)
自分の文章も目指すところはそういった地方や田舎の個店のような文章を書いていきたい。独りよがりになりすぎず、でも自分をまず満足させるために書くようなことを意識することで、そこから染み出したものに引き寄せ合い、友達が集まるみたいな個店を作りたいんだなとこの記事を書いて思えた。
そういった半分自分の戯言だけど、たまに考えるきっかけを与えられるような、そして願わくば友達がつくれるような更新を今後も続けていきたい。
以前 #46 AI時代におけるセンスの必要性について において、センスという言葉について言語化し、その重要性というものについて考えたことを書いたときにも触れた本が発売された。
本当に自分の底の浅さみたいなものをこの本を読みながら感じた。ふわふわとしていたセンスと言う言葉の扱い方が章をすすめることに、そうだよねえ・・そういうことだよねええ、、という感情になってくる。言語化が本当にすばらしい、自分がセンスについて語っていたことが恥ずかしい。
音楽・芸術・事業造りふくめて、創作活動における全てのヒントが詰まっている用に感じる本であるように思えるので、ぜひそういったことに関わりがある人には非常二オススメ。
まだ実験段階だけど、今回の内容に近い試みとしてDiscordを始めている。正直数年前も一度試してすぐ終わったので、どこまで続くかわからないのが正直なところだが、そういった試みをしつづけることが大事なような気もしており、もし興味あれば覗きにきてほしい。